であろうか? いろいろのばあいと、いろいろの姿が想像できます。複雑微妙であって、いちがいには言えない。
 しかしたぶん、あとの種類の反対者たちの多くは現在しているような形や意味では、戦争や再軍備に反対してはいなかったのではないだろうかとの想像が、かなりの確率で成りたちうるような気がします。そして、あなたは、どんなふうになさっていたでしょうか? たぶんは現在のようには戦争や再軍備に反対なさってはいなかったのではないか? もしかすると、戦争と再軍備に積極的に賛成なさっていたのではないか? 失礼な想像でありますが、これはただイヤガラセをしようとの悪意にもとずいたものではなく、ハッキリした理由のあることです。その理由とは何か? じつはそのことが、第二の理由の説明になります。
 というのは、マルクシズム=共産主義の実践要項のなかには、その理論体系から押しだしてくる必然として、かならず武力が取りあげられる。共産主義の革命理論がここにあって、かしこに武力があり、革命の必要に応じて、かしこの武力がここに持ってこられるのではない。理論そのもののなかに、また理論が必然的に生みだしたものとして武力がある。武力を暴力と呼んでもよいし、それが発動したときの関係が大がかりのばあいには戦争といってもよい。ただ、それは、プロレタリア階級の解放や独裁権力確立のためのものでなければならぬとされている。
 そういう武力=暴力=戦争ならば彼らは積極的に肯定する。共産主義者がいて、武力=暴力=戦争を肯定するのでなく、彼が共産主義者であること自体が武力=戦争を肯定するということを含んでいる。そういう主義がマルクシズム=共産主義です。
 マルクシズムの原典や理論家たちの本から、経済闘争から政治闘争にわたる、階級闘争に関する理論や、いくつかの帝国主義戦争論その他の理論を引きあいに出しながら、このことを私なりに証明することはできそうに思いますが、いまはその時間もなく、またあなたにむかって、そんなことをするのは、シャカに説法と同じで、不必要なことでしよう。
 要するに、マルクス主義はあらゆる戦争に反対しうるものではなく、反対していない。むしろ逆に、ある種の戦争には積極的に賛成するもので、現にしている。彼らの各種の憲章に、つねに主格として登場するのは「労働者と農民と兵士[#「兵士」に傍点]」です。
 実際的にもマルクシ
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