寄せてあたため合いながらの暮しが流れ、
私の十七歳の春のくれに
「東京に行け」と兄が言い出したのです。
それには、先ず私自身が、しばらく前から
母と兄とのそのような暮しに不足は感じないながら
なんとなく自分にはもっと見るべき世界が
もっと、どこかにひろがっているような
踏みこんで味わうべき生活の流れが、
もっともっと有るような気がしていた
それは幼い少女の、あてもないあこがれ心と、
兄が私のうちにかき立てた
人と生れたからには、自分のためにも人のためにも何かの事をしなければならないという気持との
いっしょになったものでした。
兄は兄で、前にいった自分の後つぎを私にさせる気があります、
その上に、熱意と愛情のあまり
兄があやまって私のうちに認めていた
芸術的な素質を伸ばしてやりたいと思ったようです
それには、東京だ。
そのころ既に満洲事変が中国との戦争状態に突き進んで行っていた頃で
もしかすると、もっと大がかりな状態にひろがるかもわからない
それを取巻く世界のありさまも暗い無気味な嵐の前ぶれの中にあって
若い娘の私一人が、どうしたところで
左翼的な政治や労働や思想の世界で
何かをしようとしても、どうアガキが附くわけはない
兄もそれは知っていて、ハッキリそういったこともあります
おさえつけて来る黒い雲は厚い
一人や二人や千人の力でどうにもなりはしない
それだけに又、このまま此処にいるならば
せっかく萠え出ようとしている若い命の芽は
おしつぶされ、踏みにじられて、泥に埋まる
一日も早く今のうちに
風が烈しくなってもその中に立って
吹きたおされないで居られる程のものにはなしておかねば!
それには東京だ。兄は、そう思ったのです
幸い東京には、兄の高校時代の先輩で
思想的にも兄を導いてくだすった
山田先生がいて、いっさいを引き受けてくれると言います。

母は、最初は反対していましたが
しまいに寂しそうに、承知しました
かわいそうな気もしましたが
一方へ飛び立とうとしている幼い心には
そんな事もシミジミとはわかりません。
母は私が東京へ立つ前の晩に
裏の座敷で膝と膝とを突き合せるように坐らせて
「男であれ女であれ人間は、
いつでも、どこででも初一念を忘れてはなりません、
なんでもよいから、あなたがホントにしたいと思うことをおやりなさい
戦争は、ひどくなります
こんな中で東京で勉強するのだから、
その覚悟でシッカリやらねばなりませんよ
兄さんとあたしの事は心配いりません
一番大事なことはミサオです
いったんこうと思いきめてはじめた事は
どんな事があっても、やりとげる
それが真人間のすることです。忘れないよう、
お母さんがあなたに、これをあげます」
そういって、母は懐剣をひとふりくれました
母が父のもとに嫁入りする時に
母の母からもらった物で
母は母らしい、ふるめかしい事をするものだと
少しコッケイなように思っただけです
その時の母の悲しそうな
涙のかれた眼を思い出したのは
ズッとあとになってからです。
そうして、東京に出ました
国を立つ時には母も私も泣きました
私の方がよけいに泣きました
甘い涙がおかしい位に出たのです。
兄だけは、寝ながらニコニコと嬉しそうに笑いました

東京!
長くつづいた日華事変が
次第に更に大きな戦争にひろがりそうな気配で
何もかも不気味に一方に傾きかけて
二・二六の事件でそれが爆発した頃で
東京のありさまも荒れすさんで来てはいても
九州の田舎から出て来たばかりの女学生に
それは、ただギラギラと光りくるめき
音を立てて、ひしめき、はなやぐ渦の町です、
しばらくは、ただノボセたように
何を見ても何を聞いてもカーッとして、
町を歩くと、よく鼻血を出しました。

山田先生一家は快く私を受け入れて
もとの女中部屋の三畳の部屋をあてがってくださり
お子さんのめんどうを見たり家事の手伝い、使い走りに
しばらく過した後で
その頃先生が講師をなすっていた夜間の私立大学の
文科の聴講生に編入してもらって
勉強できるようになりました、
後から思うと、当時人手の不足した頃で
それまで使っていた女中が居なくなり
ちょうど私がそこへ来て、女中代りに使われたわけですけど
若い田舎者の私は
朝から晩までコキ使われても、苦になりません
何よりも、夜だけでも勉強が出来るのです
時々は先生の助手としてカバンを持って
教室や講演会へお伴をしたり
先生の書斉で原稿の清書をさせられたりするのも
おそれ多いような、誇らしいような、気がします
ただ幸福で、ワクワクと
夢中になって働らき、本を読み、
飢えたように、物を見つめ
先生の言葉に聞き入りました、
どんな物を見ても、言葉を聞いても
私には、すべて光りが強過ぎて
理解することはできませんでした、
理解しないままに、のみこんだのです、
とにかく私はガツガツと
ただガツガツと、それがなんだか自分では知らないで
尊敬する先生の言葉をのみこみました。

先生はホントにえらい人でした
奥さんも立派なインテリで
明るい、積極的な、世話好きな方でした
二人のお子さんも身体がすこし弱くて、わがままだけど
陽気なお子たちです
先生の弟の徹男という方は
大学から帰ると、直ぐに自分の書斉に入って、
めったに出て来ず、出て来ても、ほとんど口をきかず
いつも、何かをジッと見つめているような人でした。
それが家族の全部で
みんな私によくしてくださいます、
食費だけは九州から送ってくれるのを差し出します
実際は女中の仕事をさされていても
「緑川さん、緑川さん」と言って、
みんな、女中あつかいにはなさいません。
いえ、たといただの女中であっても
この家では普通の家でするように
呼び捨てにして見くだしてコキ使うことはしないでしょう
自由主義といいますか進歩的といいますか
家の中が自然にそうなっていました
明るい理智的な誠実な空気でした

私は先生一家を心から尊敬し愛しました
一家の空気の中で、私はホントに幸福でした
私は有頂天になって、兄にその事を書いてやりました
兄も非常によろこんで「進歩的で、理智的な人間は、
どんな時代に、どんな所に置かれても、
そこで許される最高の意味で、最大の形で
明るく前進するものだ。
山田さんは僕が信じていた通り、
真実の進歩的思想家です。
今、時代は悪い。
すべての事は一方へ一方へ歪められるばかりで
良いものは追いやられ、おさえふせられ
自由はほとんど残っていない。
今後ますますひどくなろう。
しかし絶望というものは、われわれの行く手には存在しない
仕事は、牢獄の中にだって有る。
それを忘れないように!
希望を持ちなさい、美沙子!
山田さんは今でも
皆、学生の先頭に立って、
われわれを導いてくれた山田さんだ。
お前は山田さんの所に居られて、幸福だ。
山田さんに教えてもらい、それを守り、見ならいなさい
そして懸命に学び、正直に考えなさい」

かわいそうに! かわいそうに!
死にかけながら、兄はそう思っていたのです。

私は兄の手紙を山田先生に見せました
先生はそれを読みおわって、しばらくだまっていてから、
メガネの奥の誠実な眼をすこし涙にうるませて、
しっかりしたバスの声で言われました
「そうだ、君の兄さんの言われる通りだ
われわれには絶望は存在しない
君の兄さんと同じ頃私も検挙されて
関係が違うので私は一年ばかりで保釈になり、
いまだに保護監察所や内務省から
頭を撫でられながら尻を蹴とばされたりしているが
許される最高の意味で最大の形で
諦らめないでこうしてやっている。
君の兄さんはすぐれた人間です。
しかし、時代はあれから進んで来ている
世界も日本も、急速に新しい決定的な段階に突入しつつある
田舎で寝ている兄さんには
その辺の認識が充分でないかも知れない
われわれは時代をその現実に於て掴み
その中で自分の位置と力を客観的に置き据え
どうすれば与えられた現実の中で
真に進歩的であるかを考えなければならぬ
それがわれわれの任務だ!」
真剣に熱しながら、しかし学者らしく
その熱情をおさえつけて静かに
尚も先生はいうのです。
それは、田舎で兄に聞かされた事と同じ思想で、
言葉使いまでソックリ似ています
つまりマルクシズムでした。
先生はマルクシズムとはいわれません。
しかし、マルクシズムでした。
私には、それがわかりました
いいえ、わかったような気がしたのです
そういう事が度々あって、そのたびに
私は燃えるような気持で聞きました
兄が荒っぽく耕して置いてくれた私の頭に
先生の言葉が滋養分のある水のように
しみこみ、行き渡り、全身をひたして
ひとことずつに心の眼がパッチリと開いて行くような気がします
急に自分の背たけが伸びたような気がします
急に自分が強くなったような気がします

そのうちに気が附くと、
はじめのうちは兄と同じ事をおっしゃっていた先生が
兄が言った事のない事をおっしゃりはじめた
いつ頃からだか、わかりません
どのへんからだったか、気がつきません
すこしずつ、すこしずつ、兄のいわなかったような事が出て来ます
たとえば、それは日本民族の
世界史的必然だとか大東亜共栄圏だとか
天皇中心のアジア社会主義聯邦だとか
昭和維新の必然とか必要だとか。
はじめ私には、そんな事はよくわかりませんでしたし、
マルクシズムと、そう言う理想のつながり方ものみこめなかったのですが、
先生の話を聞くと、それがチャンと[#「チャンと」は底本では「チャンスと」]つながって、わかったような気がします。
「左翼的な進歩的思想は、既にここまで生成発展して来たし、来ざるを得ない、
君の兄さんなどもズッと元気でやっていたら必らずここへ来ていただろう」
そうおっしゃるのです
文章にも書いて発表なさいました
そんなような論文などがいっぱい現われた中でも、
先生の論文は明確で、力強く、信念に満ちて、光っていたのです

先生の文章や講演は非常に影響力を持っていて[#「持っていて」は底本では「持っいて」]
中にも若い人々の間に崇拝する人が多く
先生を中心にして研究会が出来ていて
弟の徹男さんもその会員の一人だし
私もその一人のように扱われていました
兄がそんな事を私に教えてくれなかったのは
田舎で寝ている間に兄がおくれてしまったのだ
それを先生たちが育て上げ前進させている
その道を私が進むことは
つまり兄の考えを受けつぎ、兄の分までいっしょに
生かして行くことになるのだ
兄さん、今に見てちょうだい!
そう思い燃え立ちながら
むさぼるように勉強したのです
時代の波の激しさも私たちを打ち叩きして
それは唯の勉強というには余りにひたむきな
身体ごとのぶっつかり方でした
国の内では二・二六の後波があちこちにゆれ動き
高まったり低まったり激したり沈んだりして
国全体は軍国主義一方の道をズンズン歩いていながら
革命の気分もたしかに有りました
国の外からは、聯合国が経済封鎖のアミを
次第次第にちぢめて来る
ヒットラアのドイツとソビエト・ロシアが同盟をむすぶ
「複雑怪奇」と言われた時代で
あれとこれとが、こんぐらかり
それとあれとが入れまじって
めまぐるしく移り変っていた。
内も外も、なんとかしなければ
もうどうにもやって行けない所まで来ていながら
さて、なんとも出来ない壁の前で
もがき苦しみ、狂い騒いで
左翼の理論の地盤から右翼の結論が生れたり
右翼国体の指導者が左翼出身者だったり
世界が狂えば人も狂う

愚かといえば愚かです
しかし、誰が愚かでなかったでしょう?
田舎出の二十にならぬ娘でした
理解はせずに、ただ飲みこんだのです
私が悪い
私に責任があります
しかし、私の何が悪いのでしょうか?
私にどんな責任がありますか?
では山田先生が悪いのか?
しかし先生に悪意はありません
先生は誠実に、本気になって
自分の信じている所を私につぎこんだだけです

そうです、山田先生は転向者でした
兄と同じ頃につかまって、おどかされて
あやまって出て来てから
はじめ
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