病気にたおれて、もう命の長くないことを知っているために
自分が生かし得なかった意志を生かしてくれる者に
妹の私をなそうとして
大いそぎに、あわてて、いっしょうけんめいに
何もかもいっしょくたに、つぎこみにかかります
兄の身と私の行く末を心配して
ハラハラとただ眺めるだけの母をよそに
病床で熱と火のために目を輝かし、顔を赤くしながら
セキを切って流れる水のように
女学生の私を教え叱り言いふくめます。
すべてが何の事やら私にはわかりませんが、
兄のいう通りにしたのです
なぜなら私は兄が好きでした。
兄のいう通りに勉強することが
兄を喜こばせ、兄を元気づけ
兄の命を半年でも一年でも引き伸ばすことができるならば
どんな事でも私はしたでしょう
それに、兄の思想は悪いものには思えませんでした
それは何よりも先ず、自分一人の利益のためでなく、
働らいている貧しい、たくさんの人々を
幸福にするための思想でした
思想の組み立ては私によくは、わからなかった
しかし思想の土台になっている考えは、わかるような気がしたのです
それに、そのような思想家として
兄はホンモノでした、それを身をもって生き抜いた
ホンモノでした、今でもそう思います
それだけは小さい私にもわかりました
それが私を動かしました
それは母さえも動かしたのです。

母はただ物がたい家に生れ育って
厳格な父のもとにとつぎつかえて、
まだ若くして夫を失い、その遺児の兄と私を
僅かばかりの遺産を細々と引き伸ばしながら育てて来た
気の弱い、情のこまやかなだけの女で、かくべつの取りえもない
ただ一つ人間に大事なものはミサオ――節操というもので
それさえあれば人は人としてどのような場合でも
恥じることはないと思っており、おこなって来た女です
それだけに、兄の思想を遂にわからず
牢屋に入ったり病気になった兄の身の上を
ただ動物の母のように身を細らせて心配するだけでしたが、
次第々々に、兄の思想に対する一徹さに
自分の息子は、すくなくともハレンチな無節操な
腰抜けではない。
私はこんなセガレを育てた事で、死んだお父さんに申しわけがない事はないと思うようになったようで
おしまいの頃は、自分だけの胸の中では
母親としての誇りのようなものを感じながら
兄をみとっておりました。

そのようにして、眠ったような南の国の城下町に、
三人が、からだを寄せてあたため合いながらの暮しが流れ、
私の十七歳の春のくれに
「東京に行け」と兄が言い出したのです。
それには、先ず私自身が、しばらく前から
母と兄とのそのような暮しに不足は感じないながら
なんとなく自分にはもっと見るべき世界が
もっと、どこかにひろがっているような
踏みこんで味わうべき生活の流れが、
もっともっと有るような気がしていた
それは幼い少女の、あてもないあこがれ心と、
兄が私のうちにかき立てた
人と生れたからには、自分のためにも人のためにも何かの事をしなければならないという気持との
いっしょになったものでした。
兄は兄で、前にいった自分の後つぎを私にさせる気があります、
その上に、熱意と愛情のあまり
兄があやまって私のうちに認めていた
芸術的な素質を伸ばしてやりたいと思ったようです
それには、東京だ。
そのころ既に満洲事変が中国との戦争状態に突き進んで行っていた頃で
もしかすると、もっと大がかりな状態にひろがるかもわからない
それを取巻く世界のありさまも暗い無気味な嵐の前ぶれの中にあって
若い娘の私一人が、どうしたところで
左翼的な政治や労働や思想の世界で
何かをしようとしても、どうアガキが附くわけはない
兄もそれは知っていて、ハッキリそういったこともあります
おさえつけて来る黒い雲は厚い
一人や二人や千人の力でどうにもなりはしない
それだけに又、このまま此処にいるならば
せっかく萠え出ようとしている若い命の芽は
おしつぶされ、踏みにじられて、泥に埋まる
一日も早く今のうちに
風が烈しくなってもその中に立って
吹きたおされないで居られる程のものにはなしておかねば!
それには東京だ。兄は、そう思ったのです
幸い東京には、兄の高校時代の先輩で
思想的にも兄を導いてくだすった
山田先生がいて、いっさいを引き受けてくれると言います。

母は、最初は反対していましたが
しまいに寂しそうに、承知しました
かわいそうな気もしましたが
一方へ飛び立とうとしている幼い心には
そんな事もシミジミとはわかりません。
母は私が東京へ立つ前の晩に
裏の座敷で膝と膝とを突き合せるように坐らせて
「男であれ女であれ人間は、
いつでも、どこででも初一念を忘れてはなりません、
なんでもよいから、あなたがホントにしたいと思うことをおやりなさい
戦争は、ひどくなります
こんな中で東京で勉強
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