するのだから、
その覚悟でシッカリやらねばなりませんよ
兄さんとあたしの事は心配いりません
一番大事なことはミサオです
いったんこうと思いきめてはじめた事は
どんな事があっても、やりとげる
それが真人間のすることです。忘れないよう、
お母さんがあなたに、これをあげます」
そういって、母は懐剣をひとふりくれました
母が父のもとに嫁入りする時に
母の母からもらった物で
母は母らしい、ふるめかしい事をするものだと
少しコッケイなように思っただけです
その時の母の悲しそうな
涙のかれた眼を思い出したのは
ズッとあとになってからです。
そうして、東京に出ました
国を立つ時には母も私も泣きました
私の方がよけいに泣きました
甘い涙がおかしい位に出たのです。
兄だけは、寝ながらニコニコと嬉しそうに笑いました
東京!
長くつづいた日華事変が
次第に更に大きな戦争にひろがりそうな気配で
何もかも不気味に一方に傾きかけて
二・二六の事件でそれが爆発した頃で
東京のありさまも荒れすさんで来てはいても
九州の田舎から出て来たばかりの女学生に
それは、ただギラギラと光りくるめき
音を立てて、ひしめき、はなやぐ渦の町です、
しばらくは、ただノボセたように
何を見ても何を聞いてもカーッとして、
町を歩くと、よく鼻血を出しました。
山田先生一家は快く私を受け入れて
もとの女中部屋の三畳の部屋をあてがってくださり
お子さんのめんどうを見たり家事の手伝い、使い走りに
しばらく過した後で
その頃先生が講師をなすっていた夜間の私立大学の
文科の聴講生に編入してもらって
勉強できるようになりました、
後から思うと、当時人手の不足した頃で
それまで使っていた女中が居なくなり
ちょうど私がそこへ来て、女中代りに使われたわけですけど
若い田舎者の私は
朝から晩までコキ使われても、苦になりません
何よりも、夜だけでも勉強が出来るのです
時々は先生の助手としてカバンを持って
教室や講演会へお伴をしたり
先生の書斉で原稿の清書をさせられたりするのも
おそれ多いような、誇らしいような、気がします
ただ幸福で、ワクワクと
夢中になって働らき、本を読み、
飢えたように、物を見つめ
先生の言葉に聞き入りました、
どんな物を見ても、言葉を聞いても
私には、すべて光りが強過ぎて
理解することはできませんでした、
理解しないままに、のみこんだのです、
とにかく私はガツガツと
ただガツガツと、それがなんだか自分では知らないで
尊敬する先生の言葉をのみこみました。
先生はホントにえらい人でした
奥さんも立派なインテリで
明るい、積極的な、世話好きな方でした
二人のお子さんも身体がすこし弱くて、わがままだけど
陽気なお子たちです
先生の弟の徹男という方は
大学から帰ると、直ぐに自分の書斉に入って、
めったに出て来ず、出て来ても、ほとんど口をきかず
いつも、何かをジッと見つめているような人でした。
それが家族の全部で
みんな私によくしてくださいます、
食費だけは九州から送ってくれるのを差し出します
実際は女中の仕事をさされていても
「緑川さん、緑川さん」と言って、
みんな、女中あつかいにはなさいません。
いえ、たといただの女中であっても
この家では普通の家でするように
呼び捨てにして見くだしてコキ使うことはしないでしょう
自由主義といいますか進歩的といいますか
家の中が自然にそうなっていました
明るい理智的な誠実な空気でした
私は先生一家を心から尊敬し愛しました
一家の空気の中で、私はホントに幸福でした
私は有頂天になって、兄にその事を書いてやりました
兄も非常によろこんで「進歩的で、理智的な人間は、
どんな時代に、どんな所に置かれても、
そこで許される最高の意味で、最大の形で
明るく前進するものだ。
山田さんは僕が信じていた通り、
真実の進歩的思想家です。
今、時代は悪い。
すべての事は一方へ一方へ歪められるばかりで
良いものは追いやられ、おさえふせられ
自由はほとんど残っていない。
今後ますますひどくなろう。
しかし絶望というものは、われわれの行く手には存在しない
仕事は、牢獄の中にだって有る。
それを忘れないように!
希望を持ちなさい、美沙子!
山田さんは今でも
皆、学生の先頭に立って、
われわれを導いてくれた山田さんだ。
お前は山田さんの所に居られて、幸福だ。
山田さんに教えてもらい、それを守り、見ならいなさい
そして懸命に学び、正直に考えなさい」
かわいそうに! かわいそうに!
死にかけながら、兄はそう思っていたのです。
私は兄の手紙を山田先生に見せました
先生はそれを読みおわって、しばらくだまっていてから、
メガネの奥の誠実な眼をすこし涙にうるませて、
しっかりしたバスの声で言
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