われました
「そうだ、君の兄さんの言われる通りだ
われわれには絶望は存在しない
君の兄さんと同じ頃私も検挙されて
関係が違うので私は一年ばかりで保釈になり、
いまだに保護監察所や内務省から
頭を撫でられながら尻を蹴とばされたりしているが
許される最高の意味で最大の形で
諦らめないでこうしてやっている。
君の兄さんはすぐれた人間です。
しかし、時代はあれから進んで来ている
世界も日本も、急速に新しい決定的な段階に突入しつつある
田舎で寝ている兄さんには
その辺の認識が充分でないかも知れない
われわれは時代をその現実に於て掴み
その中で自分の位置と力を客観的に置き据え
どうすれば与えられた現実の中で
真に進歩的であるかを考えなければならぬ
それがわれわれの任務だ!」
真剣に熱しながら、しかし学者らしく
その熱情をおさえつけて静かに
尚も先生はいうのです。
それは、田舎で兄に聞かされた事と同じ思想で、
言葉使いまでソックリ似ています
つまりマルクシズムでした。
先生はマルクシズムとはいわれません。
しかし、マルクシズムでした。
私には、それがわかりました
いいえ、わかったような気がしたのです
そういう事が度々あって、そのたびに
私は燃えるような気持で聞きました
兄が荒っぽく耕して置いてくれた私の頭に
先生の言葉が滋養分のある水のように
しみこみ、行き渡り、全身をひたして
ひとことずつに心の眼がパッチリと開いて行くような気がします
急に自分の背たけが伸びたような気がします
急に自分が強くなったような気がします
そのうちに気が附くと、
はじめのうちは兄と同じ事をおっしゃっていた先生が
兄が言った事のない事をおっしゃりはじめた
いつ頃からだか、わかりません
どのへんからだったか、気がつきません
すこしずつ、すこしずつ、兄のいわなかったような事が出て来ます
たとえば、それは日本民族の
世界史的必然だとか大東亜共栄圏だとか
天皇中心のアジア社会主義聯邦だとか
昭和維新の必然とか必要だとか。
はじめ私には、そんな事はよくわかりませんでしたし、
マルクシズムと、そう言う理想のつながり方ものみこめなかったのですが、
先生の話を聞くと、それがチャンと[#「チャンと」は底本では「チャンスと」]つながって、わかったような気がします。
「左翼的な進歩的思想は、既にここまで生成発展して来たし、来ざるを得ない、
君の兄さんなどもズッと元気でやっていたら必らずここへ来ていただろう」
そうおっしゃるのです
文章にも書いて発表なさいました
そんなような論文などがいっぱい現われた中でも、
先生の論文は明確で、力強く、信念に満ちて、光っていたのです
先生の文章や講演は非常に影響力を持っていて[#「持っていて」は底本では「持っいて」]
中にも若い人々の間に崇拝する人が多く
先生を中心にして研究会が出来ていて
弟の徹男さんもその会員の一人だし
私もその一人のように扱われていました
兄がそんな事を私に教えてくれなかったのは
田舎で寝ている間に兄がおくれてしまったのだ
それを先生たちが育て上げ前進させている
その道を私が進むことは
つまり兄の考えを受けつぎ、兄の分までいっしょに
生かして行くことになるのだ
兄さん、今に見てちょうだい!
そう思い燃え立ちながら
むさぼるように勉強したのです
時代の波の激しさも私たちを打ち叩きして
それは唯の勉強というには余りにひたむきな
身体ごとのぶっつかり方でした
国の内では二・二六の後波があちこちにゆれ動き
高まったり低まったり激したり沈んだりして
国全体は軍国主義一方の道をズンズン歩いていながら
革命の気分もたしかに有りました
国の外からは、聯合国が経済封鎖のアミを
次第次第にちぢめて来る
ヒットラアのドイツとソビエト・ロシアが同盟をむすぶ
「複雑怪奇」と言われた時代で
あれとこれとが、こんぐらかり
それとあれとが入れまじって
めまぐるしく移り変っていた。
内も外も、なんとかしなければ
もうどうにもやって行けない所まで来ていながら
さて、なんとも出来ない壁の前で
もがき苦しみ、狂い騒いで
左翼の理論の地盤から右翼の結論が生れたり
右翼国体の指導者が左翼出身者だったり
世界が狂えば人も狂う
愚かといえば愚かです
しかし、誰が愚かでなかったでしょう?
田舎出の二十にならぬ娘でした
理解はせずに、ただ飲みこんだのです
私が悪い
私に責任があります
しかし、私の何が悪いのでしょうか?
私にどんな責任がありますか?
では山田先生が悪いのか?
しかし先生に悪意はありません
先生は誠実に、本気になって
自分の信じている所を私につぎこんだだけです
そうです、山田先生は転向者でした
兄と同じ頃につかまって、おどかされて
あやまって出て来てから
はじめ
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