だ兄の言っていた事を思い出した。
全部いっぺんにわかって来た
この人たちは左翼の人たちだ
すると先生は? 山田先生は?
いや、先生はもともと左翼だったのだ
え? すると? しかし――?
だから戦争中は右翼に行って――?
それが、しかし、左翼なのだから――?
けど、今度はこうして左翼になって――?
でも、あんなに真剣な大東亜共栄圏論者だったのだから――?
だから「僕なんぞも厳密に言えば戦争協力の責任をまぬがれない」と言っているじゃないか
しかし、それを、どうしてこんな人たちの前でわざわざ言っているのだろう?
そして又、その言い方が率直で誠実であればあるほど
なぜこんなに卑屈な、オベッカじみた、弁解のように響くのだろう?
責任はまぬがれないとの言葉が良心的であればあるほど
もう既に許されて、責任をまぬがれている者が言っているように聞えるのか?

次第に私のからだの中で渦のようなものがめぐりはじめて
静かに静かに目まいが襲って来て
自分がどこに居るか、わからなくなった
バラバラバラと私のうちで飛び散って
こわれ、流れ、ぬけ落ちて行くものがある
とどめを刺されて、
キャフン! と息の絶えたものがある
それを見ていた
私はそれを見ていた

ヒョイと気がついて我れに返ると
向うの部屋で奥さんと子供さんの三人が
声をそろえて歌うインタアナショナルが
幼なく、ういういしく、明るく流れて来た
それがインタアナショナルである事を私は知っていた
小さい時に兄から習って、おぼえている。
こちらの客たちと先生は話をやめて
ほほえみながらその歌声に耳を貸していた。
私は目まいをこらえながら、だまって先生たちにお辞儀をして玄関に出て
ヨレヨレの運動ぐつをはいて外に出た
歌声はまだ私を追いかけて来た
歩きながら私はなんにも考えていたのではない
また、何かを感じていたのでもない
遠い、遠い所を歩いているような
寂しいような、スーッと、おだやかなような
どこにも何のサワリもないような気持がした。
私の前を横切ろうとした犬が一匹
私の顔を見上げて、
けげんそうな、おびえたような顔をして
コソコソと小走りに向うへ行った

川のふちに出た。
電車のことは思い出しもしなかった
思い出しても、それには乗らなかったろう
電車賃がなかっただけではない
たとえ有っても、乗らなかっただろう
川のふちの小道を
水の流れの方向にスタスタと歩いた
その川は、これまでに、たくさんの人の命を呑んだ川
そうだ、あの時私も飛びこんでもよかった
しかし不思議なことにその時はそんな事は考えつきもしなかった
生きるとか死ぬとかの、もっとズッと向うの方へ歩いていた
川は、畑や林や森かげを縫い
ポツリポツリと家々の影をうつし
秋の終りの人声と物音をひびかせて
まだ暮れきらぬ夕空を映して
たそがれの東京の町なかへ流れ入る。
流れと共に私も町なかへ入る
川も私も何も考えない、何も感じない
水がだんだん暗くなって来る
私の姿もだんだん黒くなって来る。
どのへんだったか、おぼえがない
しばらく前から聞こえていた足音が近づいて
「おい君、どうしたんだ?」
声に振り向くと、ヨレヨレの復員服と
アカづいて青黒い顔色で明らかに
復員したばかりの男だ
「病気かね?」と言う
答える気にもならず又歩き出すと
うしろからユックリとついて来ながら
「そんなにヒョロヒョロして歩いていると
たおれて川へおっこちるぜ」
それに私は答えなかった、よけいなお世話だと思っている
男は別に怒ったふうでもなく、また、それ以上馴れ馴れしく近づいて来る様子もない、野良犬のうしろから野良犬が歩くように
無関心に、ただなんとなく同じ方向へ歩いて行く
長いこと、どちらからも口はきかない
しばらくして、ゴソゴソと音がするので目をやると
男は雑嚢から何か出してそれを噛みながら歩いている
やがて「よかったら、これ食わないか」といって
コッペパンを一つ鼻の先に突出した
ムカッと嘔吐を感じて私がそれを睨んでいると
男はフフフと笑って
「遠慮しないでいいよ
これ食ったからって代をくれとは言わん
ひもじい時あ誰だって同じこったもんなあ
へへ、第一、こいつは俺にしたって、かっぱらって来たもんだ
恩に着なくたっていいよ
お互いに、敗戦国のルンペンじゃねえか。
しかし無理に食ってくれと言うんじゃない、いやかね?」と言って、
パンを引っこめそうにした
その時、どうしたわけか私は手を出して
さらうようにしてコッペパンをつかみ取ると
黙って、いきなり、それにかぶりついて食べはじめた
味もなんにもないゴリゴリのパンを。
男はべつに笑いもしないで
自分も自分のパンを噛み噛み歩き
そうして二人は暗くなった町中に入った

その夜は私はドロドロに疲れはて
ある盛り場のガードのそばの掘立小屋
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