んです
そのままで行けば、すべてがそれで過ぎたでしょう
新興成金か何かを選んで結婚でもするか二号になるか
案外に、普通に幸福に身のおさまりをつけていたかも知れません
なぜなら、そうしていても、徹男さんのことも兄のことも
先生のことも、めったに思い出しもしなかった
ですから、それから半年あまり過ぎて
なんの気もなく通りかかった或る講堂の表に出ていた
左翼関係の講演会の立看板に
山田先生の名を見つけ出して、それを聞いて見る気にヒョイとなりさえしなければ
こういう事にはならなかった
くやんでよいか、喜こんでよいか、悲しんでよいか
いまだに私にはわからない。

切符を買って中に入ると
共産党の人がしゃべっていて
それがすむと山田先生が出る。
久しぶりの先生の顔はツヤツヤと輝いていて
なつかしいような、うらめしいような
前の人の背中のかげにかくれるように身をちぢめ
私はドキドキと先生を仰ぎ眺めてばかりいて
初めの間は先生の話がわからなかった
そのうちにだんだんわかって来た
それは終戦後、憲法の上では基本的人権が認められるようにはなったが
実際の事実の上では人権は確立されていない事を
失業者の実態や、独占外国資本の支配力などに関係させて話されていて
先生らしく、一方で学者としての冷静な数字をあげながら
それでいて美しい詩の朗読でも聞くように
人をマヒさせて一方の方へ引きずって行くところがあった
論證のしかたも言葉使いも完全に左翼のもので
鋭どく熱があった。
先生の書斉に最後に行った時に
来客たちと話していた先生は
終戦後、間がなかったせいか
言われることも、どこかしらオズオズした所が有ったが
今日の先生は既に疑いようのない左翼の理論家で
テキパキと確信に満ちていた。
私にはそれがわかった
思えば久しくこんなような言葉を聞かなかった
聞きながら私は死んだ兄の顔をマザマザと思い出していた
兄さん、兄さん、なつかしい、かわいそうな兄さん!
あなたが昔、私に教えてくれたので
今私は山田先生の話を理解することができるのです

そしてそれは私の幸福ですか、不幸ですか?
兄さん、私は泣きたくなります。
そのうちに、徹男さんの眼が私に近づいた
山田先生の声の中に徹男さんの声を聞いた
かわいそうな、恋しい徹男さん
私は今、こういう心と、こういうからだになって
あなたの兄さんの講演を聞いています

前へ 次へ
全46ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング