ら、どうして? そんなこと言わないで連れてってよ、ねえ金吾さん。
敦子 それよりも春さん、ずうっと昔、これとおんなじようなことがあったのを覚えてる? みんなで八つ岳に登るんだと言って、ここで金吾さんにネダって、案内してもらったこと?
春子 そうお? そんなことあったかしら……(頼りなさそうに言う)
敦子 春さんはなんでもかでも忘れて[#「忘れて」は底本では「忘れれて」]しまうのね。
春子 ごめんなさいね、敦さん。私、頭が悪いでしょ、思い出せないの。
敦子 (相手が泣きそうな声を出すので慌てて)いいの、春さん、いいのよ、何て顔をなさるの。いいのよ。
春子 ごめんなさいね、私がこんなだから……
敦子 そいじゃ金吾さん、どうせ山なんて登れはしないけど、そこらの谷の登り口辺へでも連れて行って下さらない?
金吾 じゃ行きやすか、金太郎お前も来るかや?
金太 うん、行くべ。
春子 (忽ち嬉しがって)どうも、ありがとう。さあ、お仙ちゃん、行きましょう。金太ちゃんが一番先に立って。ジョン、おいで!(もう既に駈けぬけた犬が向うで吠える)
敦子 あらら、げんきだわね。(歩き出す)
金吾 ははは。金太よう、そう駈け出すでねえ。(呼びながら、歩き出している)
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ザアーャ[#「ザアーャ」はママ]と風の音。
遠くで山鳩の声。
風に乗って急に谷川の音が激しくなる。
[#ここで字下げ終わり]
金太 (先に立って、草に蔽われた小道を元気よく登って行きながら、うたう)見よ東《ひんがし》の朝ぼらけ……
お仙 金太よ、急ぐでねえよ。そんなに早く歩けねえだねえか。
金太 姉ちゃんなんか、町ばのもんな駄目だなあ。これ位のとこ、そんなに歩けねえのかよ。
お仙 金太なんず、野辺山の人間になったら、まるで、へえ、山猿だ。
金太 俺が、山猿なら、姉ちゃんなず、芋虫だ。なあ敦子おばさん。
敦子 (ハアハア言いながら、登ってきたのが)ほっほ、山猿に芋虫? お仙ちゃんが芋虫なら、私なぞ石ころね。これっぱっち登っても息が切れて、おばあちゃんはもう駄目、ここらで休んでいかない?(言いながら草の中に腰を下してしまう)
金太 へえ、こんなところで休んでたりしてたら、山へなんか行かれるもんかよ。ここはホンのまだ、新しい県道のすぐ上だぞ。
お仙 へえ、そうかよ? 新しい県道はこんなところへ出てるのか?
金太 姉ちゃんなまだ知らねいかよ。ほれ見ろ、すぐ下が県道だが。
お仙 あれまあ、ほんまだ。
金太 春子おばさまとお父ちゃんはどうしたずら? 呼びに行ってこうか?
敦子 ああ、金吾さんと春さんは、さっきの曲り角を右に行ったんじゃないかしら。ほっときなさいよ。どうせそんな遠くへは行けやしないわ。
金太 だってあれを右に[#「右に」は底本では「石に」]行くと、川の上のえらい崖っぷちに出るぞ。
敦子 なに、金吾さんがついているから大丈夫。ああ、いい風――金太ちゃん、さっきうたっていた歌は、あれは何のうた?
金太 うん? ああ、あれは農民場道の衆たちがうたう歌だ。
敦子 そうお、いい歌ね、元気のいい。おばさんも歌をひとつ教えてあげようか?
金太 うん、教えて。
[#ここから3字下げ]
激しい谷川の水の音。
その谷に臨んだ崖の上に、金吾と春子が出て来た足音。
[#ここで字下げ終わり]
春子 ああ、くたびれた。こんなに私の足は弱かったのかしら。ちょっと休んでいかない金吾さん。
金吾 春さん、こっちへ坐りなして。そこは危い、下はえらい崖だから。
春子 (ヒョイとふり返って叫声をあげる)あっ! まあえらい谷底になっているのね。落っこちたら粉微塵だわ。
金吾 はっは、だからこっちへ坐りなして。(春子のために草をないでやる)
春子 敦さんや金太ちゃんや、お仙ちゃんは何処へ行ったかしら?
金吾 どうも、道を真っつぐ行ったらしいで。なあに、どうでそう遠くは行かねえんでがしょう。
春子 そうお。ああ、やれやれ何という、いい風が吹きあげてくるのかしら。
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その谷の風に乗って、遙かに敦子と金太郎とお仙のうたう「北大寮歌」の歌声が[#「「北大寮歌」の歌声が」は底本では「北「大寮歌の歌」声が」]流れてくる。歌詞をうたうのは敦子だけ。金太郎とお仙はメロディーをつけている。
[#ここで字下げ終わり]
金吾 ああ、敦子さま達がうたっていやす。
春子 いい声! 何の歌だろう?
金吾 札幌の大学の歌でやす。都ぞ、弥生の――(一節をうたってみる)
春子 ああ、思い出したわ。札幌農大の寮歌、そうだ。思い出したわ。そうそう、あれはいつ頃だろう、ねえ金吾さん。私が女学校を卒業した年の夏だったかしら。あのそれ、ここにみんなでやって来て、あなたに案内して貰って、八つ岳の途中まで登った。そう、あの時には敏行や香川の賢一さんもいらした。思い出したわ。
金吾 はは、そうでやす。あれからもう随分になりやすねえ。
春子 敏行……香川さん……敦子さま……どうしたんだろう、そうだ、いえ、あの――
金吾 なんでがす?
春子 (何のキッカケもなく不意に涙声になって)駄目ね、私って――違ってる。みんな違ってるの。そうだ[#「違ってる。みんな違ってるの。そうだ」は底本では「遅ってる。みうだ」]、あの時、ホントは私が一番好きだったのは金吾さんだったのよ。そうなのよ。だのにどうしたんだろう、私って、自分の行きたいところへはどうしても行けないんだわ、そうだ、私はあの時に、金吾さんのお嫁さんになってりゃよかった。(とりとめのない、子供らしい、しかし、それだけにひどく真卒にひびく)それが駄目だわ、私と、それからホントの私の間に何かはさまっている。年中それが邪魔するの。そしてそっちの方へ行けない。どうしても私は、私のホントにしたいようには出来ないのよ。死んでしまえば、こうではないかも知れないわね、何故かしら?
金吾 いやあ春さん、そんなことはもうお考えにならねえで。せっかくこうやって、体が丈夫におなりなしたんだから、もうなんでもいいから、もうのんびり構えて――いい歌だなあ!
春子 (涙声)ほんと! まるで沁み入るようだわ。
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その間も継続していた「北大寮歌」が大きくなり急速に近づき、敦子達三人の所へマイクが戻る。器量一杯にうたっている三人。
[#ここで字下げ終わり]
敦子 (うたい終って)やれやれ。
金太 おばさん、いい声だなあ! 姉ちゃんよりはうまいや。
お仙 金太め、すぐそったらことを言う。おらよりおばさんの方が歌あうめえのは当りめえずら。
敦子 ははは、もうこんなおばあちゃんになっちゃ駄目。もとはね、歌は、春子おばさんがうまかった。
お仙 だけんど、春子おばさんや金吾おじさんは、なかなかやってこねえなあ。
金太 きっと、崖っぷちの方だぞ、呼ばって見べえか?
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その金太郎のセリフの尻にかぶせて、下の県道の奥から、急速に近づいてくるトラクターの、ガラガラという、ちょうど機関銃を打ちまくるような激しい音。
[#ここで字下げ終わり]
敦子 あら、何なの?(ふり返る)
金太 ああ!(これもふり返って)県道をトラクターがやってくらあ、ほらほら!
敦子 ひどい音ねえ!
お仙 春子おばさん、恐がってるずら?
金太 なあに、崖の方なら聞こえやしねえや。
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急速にすうっとマイクが飛んで、途中でトラクターの音が一たん消えて、それから風に乗って、また反響がついて激しくなったトラクターの音を伴なって、マイクは崖っぷちの春子と金吾のもとへ寄る。
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春子[#「春子」は底本では「敏子」] あっ! 戦争がやってくる! 金吾さん、どうしよう戦争がやってくるわ!(飛び上って叫ぶ)
金吾 (これも立上って、春子を抱きとめながら)春さん大丈夫だ。あれはトラクターでね、そんな恐がらなくても大丈夫でやすから――
春子 金吾さん、恐い、逃げましょう、戦争がやってくる!(金吾の腕の中で、身をもがく)
金吾 大丈夫でがす、あれはトラクターだ。そんなに恐がらなくっても、ここでそんなに暴れると、崖から落ちるだから、ここへ落ちれば粉微塵になって死んでしまう。
春子 え?(死ぬといわれて、キョロンとして)死ぬ?(崖の下を覗いてみる)金吾さん、あのね、私もう死んだ方がいい。私死ぬ。恐いから、あんなに戦争がやってくるから――
金吾 死ぬ……そんな春さん、そんなことしちゃいけねえ、あんたが死んだりすると、それこそ敏子さまや敦子さまや、それから――
春子 敏子? ああ、敏子はね、敦子さんの甥の杉夫という子と結婚することになっているの。好き合ってね、だから敏子のことは安心なの、心配いらない。私はもう死んだ方がいいの、生きているとみんなに心配ばかりかけて――だから死ぬ、離してよ。
金吾 いやあ春さん、あんたが死ねば俺も――
春子 金吾さんも死ぬ? 一緒に死んでくれる
金吾 ……(春子の顔をジッと見つめている)死んでもようがす。
春子 うれしいわ!
金吾 だけんど、すると敦子さまや、敏子さまや、その杉夫つう人や、そいから俺んとこの金太郎だとか、お豊さん、壮六、喜助……みんな泣きやす。死んじゃならねえ。
春子 泣くの、みんな?
金吾 泣きやす。
春子 でも、ああして戦争がくるのよ……
[#ここから3字下げ]
(カタカタ、カタカタとトラクターが行く)
[#ここで字下げ終わり]
金吾 戦争が来たって何が来たって、死んじゃならねえ、みんなが泣くだから。
春子 だって、ほら!……
[#ここから3字下げ]
そうやって、崖の上に相抱いて震えながら耳をすまして立っている二人。
それに向って吹きあげてくる谷川のひびきと、再び風の加減でガラガラと迫ってくるトラクターのひびき。
[#ここで字下げ終わり]
[#3字下げ]第16[#「16」は縦中横]回[#「第16回」は中見出し]
[#ここから3字下げ]
敦子
金吾
お仙
金太郎
春子
敏子
杉夫
木戸
男の声
音楽
[#ここで字下げ終わり]
敦子 (語り、中年過ぎの)はあ、その時のことは、春さんと金吾さんからずっと後になって聞いたんですの。私が県道の傍で金太郎ちゃんやお仙ちゃんなどと歌っている間に、その奥の崖の上で、金吾さんと春さんが、もうちょっとのところで、崖から飛び下りて死ぬところだったのです。つまり、年のいった金吾さんと春さんが、まあ、心中するところだったわけですねえ。
……まるで小さい子供のようになってしまった春さんの頭が、なんと思ったのでしょうか、急に若い時分から私がホントに好きだったのは、金吾さん、あなただった、と言ったそうです。そして、私という女は自分のホントに好きな人のところへは、生きてる間は行けない、だからここで一緒に死のうと言ったそうです。そいで金吾さんもフラフラッとその気になったそうですの。
そいでも二人が死ぬと、敏ちゃんや私や、そいからお豊さんや壮六さんが悲しがるから死んではいけない、と金吾さんがそう言うと、春さん一とき考えていたそうですけどね。そこへトラクターの音が、まるで機関銃のようにひびいてきて、そいで春さん、ホントに恐がって、戦争がくる、戦争がくると言って、また崖からとび下りようとしたそうですけどね、その音をきいてこらえている間に、谷底へとび下りるキッカケをなくして、死なないですんだそうでしてね。何のことはない、春さんがあんなに恐がっていたトラクターの音から心中するのを助けて貰ったようなものだ、と金吾さんは寂しそうに笑っていましたっけ。
人間生きているといろんなことがあるもんですね……まあ、そんな風にして私は落窪で二三日暮して、一人で横浜へ帰って来ましたが、そうです、あれから二月も経たない、その年の暮に真珠湾攻撃ということがあって、いよいよ大戦争が始まってしまいました。あちらもこちらも、上も下も、もう、てんやわんやと言いますか、息もつけないような有様の中で、すべてのことが変って行きました
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