二人の後から例の犬のジョンが、これもションボリしてついて来ました。この犬もずいぶんの老犬になっていて、もうヨボヨボになって、よくみると眼がほとんど見えないらしい。それがトボトボ二人の後をついて家へ帰って来たのですが、その晩、火じろのわきで金太郎君から金吾老人の話をいろいろききました。しかし、いかんせん、金太郎君はまだ若くて、若い時の金吾老人の話は知らない。なんだったら「おとつあんはごく若い時から日記を書いている」と言って、古い机のひき出しにキチンとして入れてあったその――日記といっても小さな汚れた手帳で、それが五十冊近く、毎年一冊書く習慣らしくて、冊数は年数と同じなわけなんですが、それを出してくれた。ひらいてみると、粗末な日記帳で、それに鉛筆で書いてあることはほとんど作物のことや農事のことが書いてある、農事日記です。自分の生活のことはごく僅かしか書いてありません。何月何日晴とか、今日は何処そこへ誰といったとか位のことしか書いてない。しかし私はそれを全部めくってみました。と同時に[#「と同時に」は底本では「と同年に」]、金太郎君に聞くと、老人と終生仲の良かった、もと農事指導員をやっていたという、川合壮六という人が三四里はなれた町に健在だと言うので、訪ねて行って、金吾老人の若い時からのことをきくことができました。
 以下、この物語に展開されるいろいろのことは、金太郎君の話と、川合さんの話を参考にしながら、金吾老人自身が書き残した日記帳をもとにして、年代順に並べただけのものであります。ちょうど日記帳の第なん冊目――明治四十年の分です――その真ン中ごろをひらくと――ここがそうですが――八月十日晴――そしてこれ一行だけ。馬流の壮六に頼まれ、東京の黒田様の案内をして落窪の奥へ行く――

[#ここから3字下げ]
(朗読の尻にダブって、カパカパカパとダク足で歩いて行く馬のヒズメの音。やがてガタンゴトン、ギイギイと車輪のヒビキ)
[#ここで字下げ終わり]

馭者 (ダミ声で馬に)おおら!(ムチを空中でパタリと鳴らして)おおら!

[#ここから3字下げ]
(カパカパカパとひずめの音。――この音は背後に断続してズッと入る)
[#ここで字下げ終わり]

春子 (少女の浮々した声)あららっ!
勝介 (笑いを含んで)なんだな、春?
春子 だってお父様、あのそら、あすこに見えるあの山が浅間だと、さっき、おっしゃったわね?
勝介 そうだよ。
春子 あら、だって、さっきは前の左側にあったのに、今、こうやって後ろにあるわ。
勝介 はは、だって、ごらん、うっすりと煙を吐いている。このへんに、そんないろんな火山は無いさ。
春子 そうかしら。
勝介 こうして馬車に乗っていると気がつかないが、これで、この辺の道はグルグルと、えらい曲っている。千曲川がこの辺では曲りくねって流れているからね、道はそれに添っているんだから。ねえ、あのう、なんとか君――川合君だっけ?
壮六 (案内の青年。馭者のわきの席から堅くなった口調で)はい? はあ、川合壮六であります。
春子 あら! あなた可哀そうと言うお名前?
勝介 これこれ春。
壮六 いえ、あの、川合と言う苗字で、名が壮六と言う――
春子 ああびっくりした。(クスクス笑う)
勝介 (これも笑いを含みつつ)こういう子だ、気にかけないでくれたまえ。
壮六 はあ、いえ。
勝介 佐久街道でも、たしか、このへんが一番曲りくねっていたねえ!
壮六 はい、そうであります。この辺からズーッとうん[#「うん」に傍点]の口から野辺山へかけて、はあ。
春子 あら、するとお父様、これが佐久の街道?
勝介 そうだよ。
春子 すると、このへんズーッと佐久ね?
勝介 そうだ。どうかしたのか?
春子 草笛がちっとも聞えないわね、それにしちゃあ?
勝介 草笛と?
春子 島崎藤村よ。
勝介 ああ、藤村か。
春子 小諸なる古城のほとり、よ。
勝介 うんうん、昨日のぼった――
春子 いいえ、その詩にあるの、歌悲し佐久の草笛って言うの。
勝介 詩はお父さん、わからんよ。
春子 (朗詠の節をつけて)歌悲し佐久の草笛。

[#ここから3字下げ]
(その詩の文句につづいて、トテートテー。トテトテ、トテーと明るいトボケタ音を立てて馭者がラッパを吹き鳴らす。それがあちこちの山肌にこだまして、さわやかに鳴りわたる)
[#ここで字下げ終わり]

春子 (びっくりして)あらら!
勝介 ほら、草笛のかわりにラッパだ、ははは!
春子 ひどいわあ!
壮六 (馭者に)おい、おい、おじさんよ!
馭者 (間のぬけたドウマ声で)あーん? なんだよう?
勝介 (壮六に)かまわん、かまわん。
壮六 (恐縮して)どうも、この小父さん、すこし耳が遠いんでして、はあ。どうも、もうちっとマシな馬車があるとよかったんで
前へ 次へ
全78ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング