は?
金吾 そんな……(ゴトゴト言うが、くぐもって聞えぬ)
香川 いや、そこから出て来てくれるなよ。今、君から見られたら、死にたくなっちまう僕は。ね、滑稽だろう、こういう男、金吾君?
金吾 香川さん、そんなこと……(ゴトゴト言う。ドシンと鈍く石で床を叩く)
香川 僕あ、ホントにブラジルへ行くよ! 望みを失える男、海を渡る! いいだろ? ねえ、金吾君?
金吾 そんな……(ドシン、ドシンと石の音)
香川 (それに合せて、支離めつれつな調子で歌「五丈原」)
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祁山《きざん》悲秋の風ふけて
陣雲くらし五丈原
零露《れいろ》の文《あや》はしげくして
草枯れ 馬は肥ゆれども……
(「零露の文は」の所からオフになって)
[#ここで字下げ終わり]
敦子 (中年)その時の賢一さんの胸はさぞつらかったろうと思います。しかし、その時、私と春子さんの話をその賢一さんといっしょに聞かなければならなかった金吾さん、そしてそういう事はオクビにも出せなかった金吾さんが、黙って一人で暗い炭焼ガマの中で石を叩いていた気持を思いますと、私は何と言ってよいか胸がつぶれるような気がするのです。
[#ここから3字下げ]
ドシン、ドシン、ドシンという石の音。
それに合せて歌う香川の歌声が表へ出て来る。
…………
蜀軍の旗ひかりなく
鼓角の音もいましづか
丞相《じょうそう》、病《やまい》あつかりき。
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(二)[#「(二)」は縦中横] 清渭の流れ水やせて
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むせぶ非常の秋の声
夜は関山の風泣いて
暗《やみ》に迷うか、かりがねは
…………
[#ここで字下げ終わり]
[#3字下げ]第5回[#「第5回」は中見出し]
[#ここから3字下げ]
勝介
春子
船客一(男)
同二(女)
同三(フランス人の女)
同四(フランス人の男)
ボーイ 他に三人ばかり
金吾
壮六
お豊
おしん
喜助
音楽
「ジャアーンと鳴りひゞく大銅羅の音。しばらく鳴ってから、やむ。」
「やむのを合図にデッキに並んだ管絃楽隊から『螢の光』の曲が起る。」
「ゆっくりとハトバを離れはじめた一万トン級の汽船の船内の物音。――ゴーと言うような鈍い響に、クリッ、クリッと何かの滑車の音、タタタとデッキのタラップを走りおりる船員の靴音、それに舷側に並んでハトバの見送り人と別れを告げている十人あまりの船客の気配と、そのそばを通り過ぎて行く船客やボーイの足音、港内を走るハシケのホイッスルの響きなど。」
「風の向きがスッと変って、『螢の光』が低くなって、ハトバの見送人たちのざわめきが聞える。(距離あり。しかも、これはグイグイ遠ざかって行って、間もなく消える。)
――すべてが浮々と華かな欧州航路の巨船の出港の響。」
[#ここで字下げ終わり]
見送人 (遠くで、ガヤガヤと不明瞭に)ウワア……ばんざあーい! ばんざあーい!
船客男一 (叫ぶ)ばんざあーい!
船客女二 ホホ、ホホ、ごらんなさいまし。みんなまるで踊りあがっているわ!
春子 さようならあ、敦子さまあ! さようならあ!
勝介 あはは、もう聞こえはしないよ、春。
春子 敦子さまとばあやが、並んであんなにハンカチ振っていますわ! さようならあ!
船客女三 (フランス人、変な発音で)ばん、ざーい! (フランス語で)Comme c'est beau, Adieu Japon. !
船客男四 (フランス人。フランス語で)〔Oui, ce paysage ressemble a` un immense jardin fleuri, Adieu Yokohama !〕
勝介 これで横浜も、いっとき見おさめだ。だが、私などが、アメリカに渡った時分にくらべると、ここらも立派になった。船などもあの頃の三倍以上の大きさだ。
春子 お父様、私……フランスへなんか行きたくなくなった。よそうかしら。
勝介 はは、今になって馬鹿なことを。あんなにパリに行きたがっていたくせに。
春子 ええ、そりゃパリは見たいけど。
勝介 はは、敏行君が首を長くして待っている。マルセイユまで迎えに出ている筈だ。
春子 でも、敦子さんがいないんじゃつまらない。
勝介 よっぽど気が合うんだねえ、あの人と。
春子 ごらんなさい、敦子さんも泣いていらっしゃるわ。
勝介 それよりも、そら、お前こそ涙を拭きなさい。はは、パリで待っている御亭主よりお友だちが恋しいなんて、いつまでもそういうネンネでは困る。そらそら、その花をよこしなさい。重いだろう。また、長与さんでも島津でも、よくまあこんなに花をくれたもんだ。
春子 農林省の方も下すったのよ。こっちの、これ。
勝介 やれやれ。と、しょと。
春子 あら、敦子さん、こっちへ向いてお一人
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