敦子 春子さんや春子さんのお父様とはじめてナニした馬車の中でよ。春子さんと何度か議論してもハッキリしないの。なぜそんなに泣いたんですの、あんた?
金吾 はあ。そんな、わしは――
敦子 ワアワア声をあげて泣いたってえじゃないの。いえ、それを馬鹿にしたり軽蔑する意味で春子さんも私も言ってんじゃないのよ。ただ、なぜだろうと思ってね。仔馬が可哀そうだったから?
金吾 どうも、そんな――
敦子 春子さんが泣いたから、そいで貰い泣き?
金吾 どうも――
敦子 そういう時の春子さん、綺麗でしょ? だから? 春子さんが、あんまり綺麗だったから?
金吾 そんな……もう、あの、ごかんべんなして。
敦子 ホホ、ホホ。いいわ金吾さん! フフ!
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下の方から風に乗って三人の歌声が近づいて来る。「さすらいの歌」(行こか戻ろかオロラのしたをロシヤは北国はて知らず、西は夕焼、東は夜明け鐘が鳴ります中空に。)
(敏行と香川の歌声は、何か少しイライラしたようなやけくそ気味で。春子は感傷的に)
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敦子 あら、あんな歌うたってるわ。いい気なもんね! (トットットッと走りくだりながら)さ、金吾さん!
金吾 へえ。おーい! (と歩きながら下へ呼ぶ)
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三人の斉唱の「さすらいの歌」が急速に近づく。
音楽
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[#3字下げ]第4回[#「第4回」は中見出し]
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敦子
春子
香川健一
金吾
音楽
[#ここで字下げ終わり]
敦子 (語り、中年過ぎになってからの)はい、私が敦子でございます。さようでございますねえ、あの当時、つまり明治の末から大正の初めにかけての、東京の割に良い家庭で苦労知らずに育って、高等教育を受けた私のような娘の生意気さと申しましょうか、ちょうど、イブセンの「人形の家」が、紹介されたり、「青踏」という雑誌が創刊されたり、新らしい思想が外国から盛んに入って来たりした時代の空気のせいでもございました。それに黒田の春子さんはあの調子で、何かと言えば敦子様々々々と私のことをお姉さま扱いになさいます、つい、自分にはなんでもかでもわかるような気持になっていたのですね。今から思うと冷汗が流れます。でもほかの事は、まあとにかくとして、あの頃の、金吾さんという人の、春子さんに対するあんなに深い気持を見はぐっていたことに就いては、ホントに私は自分が許せないような気がするのでございます。春子さんは、あの調子で気づかなかったのは、仕方がありません。しかしこの私は、私ぐらいは、それをわかってやらなければならなかったのです。それがわからなかった。もっとも金吾さん自身が、春子様にそれほどナニしながら、あんまり身分やなんかが違い過ぎるせいでしょうか、自分の心の上に何が起きたのか、自分でも気が附かなかったようですの、最初から望みを持つ――も持たないも無い、はじめっから、まるで諦らめている、いえ、手に入れようと望みもしないのですから、諦らめるという事も無いわけです。そういう事もあるのでございますねえ。……ズッと後になって私、樹氷というものを見たことがございます。所も同じ信州の高原地の冬のことですけど、物みなが凍てついて静まり返った零下二十度からの夜明け方にあちこちの樹の幹と言わず、梢と言わずホンの一瞬のうちにビシリと氷りついて、それが朝陽に真白くキラキラと光り輝いて、それきり春先になるまで溶けないのです。その冷たさ、美しさ、不思議さと申しましたら! 春子さんに対する金吾という人のことを思うたびに、私はその樹氷の姿を見るような気がいたします。
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音楽
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あれは、私と春子さんが学校を卒業した年の夏でした。又々すゝめられるまゝに、春子さんの信州の別荘に行ったのですが、その前の年の暮れに春子さんは例の遠縁にあたる敏行様と御婚約が出来ていたのです。敏行さんという方には、そのころフランス駐在の外交官をなすっている伯父さんがありまして、その方のすすめで、大学は途中でやめて法律の勉強のためパリに渡られたのですけど、それを前にして春子さまに対してタッテとの申込みでして、春子さまはあの調子で、軽々しいと言いますか、そうなれば自分もフランスに行けるからと言ったようなお気持だったと思います。お父さまは何事につけても娘さえ幸福ならばと春子様まかせ、それで、婚約が成り立って、敏行様はフランスへ出発なすって、半年もしたら春子さまを向うへ呼び寄せると言うのでした。そういう、つまり春子さまにとっては娘としての最後の夏と言うわけで、それまでの沢山の求婚者たちは、ガッかりして引きさがったわけでして、私のイトコの香川賢一もその失恋した一人でしたが、
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