烽オれないけど――ごらん、鶴や、この下を流れて[#「流れて」は底本では「洗れて」]いるのが千曲川。向うの、あのそれ、ズーッと奥に、うっすり煙のかかった山ね。あれが浅間。
鶴 そうでございますか。きれいでございますねえ。私はこういう所は生れて初めてでして、なんか、夢でも見ているような気がいたします。
春子 そうね、私もはじめてこの辺に来た時には、そんな気がしたわ。頭はハッキリしていながら、なんか気が遠くなるような、ね。あれは学校を卒業する前の年だったから、ええと、もうあれで七八年になるわ。

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鶴に抱かれた幼児が半ば目をさましてクスンクスンとグズリはじめる。
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鶴 おおよしよし。
春子 よちよち、敏ちゃん、そろそろ、おしっこじゃないかしら?
鶴 いえ、汽車を降りる直ぐ前におしめ代えましたから。ほら、直ぐまたおねんねです。(幼児グズっていたのをやめる)
春子 あら、寝んねしながら笑ってるわ、この子は。夢でも見てるのかしら?
鶴 そうでございますねえ。

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窓の外、かなり離れた川原で馬のいななく声。
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春子 (そちらを振返って)ああ馬だわ。……仔馬は近ごろ居ないの、金吾さん?
金吾 仔馬でやすか? いや、いるにゃいやすけど、当才の奴ア、もうだいぶ大きくなっちまって。
春子 そう。……(鶴に)いえね、最初にここに来た時に――川原を飛びはねている小さな小さな仔馬を見たのよ。それを思い出したの。私がそれを見て泣き出したの。するとお父さまが――(言っている内に涙声になっていて、そこで、こらえきれなくなって言葉を切って泣き出す。)
鶴 ……奥様、どうなさいました。
春子 いいの、いいのよ鶴や。(涙声)あの時はノンキに歌なんか歌っていた春子が、今こうして敏子という赤ん坊持って、同じ道を、やっぱり金吾さんの馬車で行ってる。……お父さまがごらんになったら、なんとおっしゃっただろう?
鶴 でも奥さま、そんな事を今おっしゃっても――
金吾 あのう、どうかなさいやした――?
春子 (すこし笑って見せて)いえね金吾さん、昔のこと思い出して……そいで父のこと――(言っている内に又泣き出す)
鶴 (少しおさえた声で金吾に)いえね。お父様がパリでおなくなりになって――それを思い出しなすって。
金吾 え? す
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