捨吉
三好十郎
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)燒酎《しようちゆう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)世間|態《てい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]
−−
星はない
風もたえた
人ごえも消えた
この驛を出た列車が
すでに山の向うで
溜息を吐く
白いフォームに[#「フォームに」は底本では「フオームに」]
おれと
おれの影と
驛長と
驛長の影と
それだけがあつた
見はるかす高原は
まだ宵なのにシンシンと
太古からのように暗い
その中で秋草が
ハッカの匂いをさせて寢ていた
海拔三千尺の
氣壓の輕さが
おれの肺から
空氣をうばつて
輕い目まい
このプラットフォームは
闇の高原に向つて 照明された
白い舞臺だ
おれは舞臺をおりて
闇の中に沒する
ブリッジはないから
線路を歩いて
左の方へわたると
あるかなきかの小道が
草の中へ消える
「もしもしそちらへ行くと
ズッと山ですよ」
驛長が呼びかけた
「いやいいんです」
驛長は
いぶかしげな顏で
すかして見たが
おれの微笑に
安心して
背なかを見せてコトコトと
驛舍の方へ歩み去つた
驛長よ
君はあと四半世紀
驛長の役を演じるように罰されている
おれはすでに
なぜここを歩くかを知らぬ
ああ
生れて三十五年
はじめておれは
理由のない行爲をする
ハハハ!
おれは笑つたが
笑い聲は聞えないで
あたりの草がサヤサヤと鳴つた
いつのまにか風が出ていた
振返ると
東の空がやや明るい
もうすでに
一時間歩いたのか
三時間歩いたのか
わからない
習慣になつている
左の手首をのぞいたが
時計も腕も見えないで
闇が見えた
そうだ
腕時計はおととい
板橋で賣つた
池袋の驛で
中村に會つて
いつしよに飮んでしまつたのだ
おれと中村が
いつもの店に行くと
いつもの仲間が飮んでいて
いつものとおり
議論と溜息と歌
中村と共に
そこを出て
目白の
彼の家に泊る
すでに一時になつているのに
今度は
彼の細君をまじえて
燒酎《しようちゆう》を飮む
やがて中村夫婦は奧に
おれは襖のこちらの居間に
眠つて
目がさめたら
今朝の十時だ
中村は
勤めに出かけたあとで
俺はすすめられるままに
細君を相手に
朝飯を御馳走になり
やがてそこを出て
會社への遅い出勤の途上
あれはどこだつたろう
まだ枯れつくさぬ
街路樹に
午前の陽が
ヒョイとかげつて
枝がかすかに搖れたのを
見た瞬間に
フイとその氣になつて
汽車の切符を買つた
[#ここから2字下げ]
「あの方が
そんなことをなさろうとは
どうしても思えません
私の家には
これまで
四五回もお泊りになつたんですけど
いつも快活な方で
ことにゆうべから今朝にかけて
よくお笑いになるし
朝など
中村が勤めに出たあと
味噌汁を吹き吹き
朝御飯を食べながら
ひわいな話をなさつては
私をからかうんですの
そして
やあお世話さまと言つて
フラリと出て行かれたんですの
前の晩の
宅との議論の中で
そんなつまらない會社などに
勤めていないで
宅の勤めている研究所の
統計課にあきがあるから
勤めを變つたらどうかと
宅がすすめるのを
あの方が
どこに勤めるのも同じだからと
笑つて返事をなさつていましたつけ
とにかく私には
どうして
そんなことをなさつたのか
まるでわからないんですの」
[#ここで字下げ終わり]
歩いていく足の下が
右の方へ
右の方へと
少しずつ傾いて
自然におれの足は
谷あいへ降りて行く
足の下の下ばえが
クマ笹を交え
風が死んで
高原に露がおりはじめたようだ
そうですよ中村の奧さん
あんたには
おれがどうしてこうなつたのか
どうしてもわからない
しかしねえ奧さん
あなた自身はどうして
そうやつて生きているのか
わかつているのかな?
肥料の生産を
もつとも大きな産業種目とするコンツェルンの
世間|態《てい》をとりつくろうための
勞働研究所で
グラフを作りながら
自宅ではセッセと
仲間とのゼミナールで
「東洋社會の形成」を研究している
中村の
社會學者としての大成を信じている妻
それを信じさせている中村
ほほえましい夫婦だ
右手をすかすと
うす白く光つて谷底を
夜の小川が流れていた
グラリと俺のからだが傾いて
ズルズルズルと熊笹をすべり落ち
傾斜の底の川ぶちに倒れた
しめりをおびた土の
はげしい匂いが鼻をついて
頬がかゆいので
手をあてるとヌルリと血だ
倒れた拍子に
切りかぶで切つたか
頬にさわりながら
そうだ東京を出てから
自分のからだに自分がさわつたのは
これがはじめてだと思つた
思つたトタンに
電流のように
女たちのことを思い出していた
戰場で銃彈に死ぬ兵士が
一瞬のう
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