ちに
自分の全生涯の大小あらゆることを
そのスミズミまでくつきりと
思い浮かべるそうだが
あの話はホントだ
女たちは
一度に五六人で來た
初子
松枝
クミ子
おけい
…………
お前たちはみな
すでに俺から遠い
そこでヒョイと暗い空を
見上げようとしたとたんに
突きあげてきた嘔吐《おうと》
ゲイ ゲイ ゲイ ゲイ
氣がついたら
小川のふちの岩に
さかさまになつたままで俺は寢ていた
おかしくなつて俺は
じかに小川の水に顏をつつこんで
氷のようなうがいをしてから
飮めるだけの水を飮んで
立ち上つて
足は小川の左岸に出た

その時遠くで
かすかにギァアと鳥の聲に似た
ひびきがあつた
いまごろ鳥がなく?
それを別に不思議にも思わぬ
その鳥のないた口の中が
くらやみの中に眞赤にみえた
同時に妻の節子のことを思い出した
赤い鳥の口と節子と
なんのつながりか?
現在までに俺と關係あつた女を
つぎつぎと思い出して
すでに十年もいつしよにくらした
妻のことを
最後に思い出す
しかも思い出すことごとくが
白茶けて味も匂いもなくなつている
どこもかしこも知りつくしたためか
それともあれで
俺がいちばん深く愛していたからか

川岸にクマ笹がなくなつて
灌木の林が
ピシピシと音をたてる

その次に思い出したのが
畠山
國本
織田
三人とも友人だつた
畠山よ 君は相變らず澁い顏をして
俺は甘くないぞという顏をして
それ故にこの上もなく甘い顏をして
[#ここから2字下げ]
「小野田がなんだよ!」
[#ここで字下げ終わり]
と言つて嘲笑した
君の嘲笑は
シンからの憎惡を含んでいる
君が小野田を嫉妬している嫉妬心はほんものだからだ
小野田は君と同年なのに
すでに花形小説家で
君はまだ世に出ざる小説家で
小野田は君を同輩として
重んじるような形でかろんじ
君は君で小野田を
呼びすてにしたりすることで
オベッカをして
そして互いに暗闇の中のマムシのように
憎み合つている
俺は君がそれほど嫉妬する
小野田という流行作家とは
どんな人間だろうと思つて
いくらか興味を持つていた
それが君に紹介されて
會つてみると
それは人間ではなくて豚だ
からだも心もグナグナで
なにかというとすぐに悲鳴をあげ
體中の粘液が多過ぎて
自分で自分の粘液をなめては醉いしれて
ヒョロヒョロになつて歩いている
豚…………

次に人生の被害者
國本のオッサン
この人間の
なんとこぼすことよ
この人生への不満と不平と缺乏と
生れた時からこぼしぬいて
三十六にしかならないのに
四十八歳のつらをショボつかせ
勤めている商事會社の
資本主義を呪い
共産主義にあこがれるから
共産黨になるかと思うと
新年の拜賀に
宮城に行つて感泣し
日本はよい國だと
祝盃をあげると
二合位の酒で泥醉して
それであくる日から
通勤電車の中で
日本は地獄だと呪つている
自分だけが
いつでも悲慘な人間で
その悲慘さを
アメチョコのようにしやぶつて
自分が幸福だということを
まるで氣がつかない位に幸福

國本が被害者ならば
織田は加害者と言えるかもしれない
全く無意味に積極的で
自分のオッチョコチョイを
アメリカニズムだと言い
ちかごろそれを
スプートニキズムと呼んで
大學の若い科學者と交際し
拳鬪選手とつきあつて
勤めている新聞社で
科學記事と殺人事件には
必ずとび出して行く
セックスがいつさいだと言うのが
口ぐせだ
そのくせ細君は三人目の情人を持つている

あと何人書きつけてみても
同じことだ
その最後にションボリと
この俺という人間の姿がある
いとわしい
みんなみんな いとわしい
これが憎惡なら
俺は生きていただろう
憎惡するだけの張合いもなく
ただ意味もなくいとわしい
俺は汽車の中で
なんとかして遺書らしいものを書こうとして
手帳に向つていくら鉛筆をなめても
ついに一行も書けなかつた
何を書いてもウソになるのだ
遺書に書けるようなことのために俺は死ぬのではない
自殺者が 書きのこした遺書はみんな
あれはウソだ
いやいや 人一人が消えてなくなるのだ
どういう意味でも
他人に迷惑をかけてはならぬ
そう自分に言い聞かせて
なおも書こうとしたが遂にダメ
何を言つてもむなしいのだ
何を書いてもいとわしいのだ
人と人とは互いにキチガイ同志だ
何を言つてもわかりはしない

いやだ
いやだ
いやだ
歌うようにくりかえしながら
ヒョイと氣がつくと
小川の水に踏みこんで
ザブリザブリと
向う岸に渡り
灌木をわけて
崖をはい登つていた
闇の灌木の小枝に
顏や手をかきむしられながら
登りきつて大地に立つと
高原の空氣は 急にひえきつて
腹の底まで氷をのんだようになり
水にぬれたズボンの中で
足の皮膚がビリビリと痛む

俺が渡り越えたのは
ヨミの川か

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