昔のぞいた三世相かで見たことがある
それともあれはダンテの神曲だつたか
どつちでもよい
死んだ人間が
トボトボと一人で渡る
暗い川だ
冷たい風と共に
俺は歩いた
死を前にひかえた人間には
あのように空白な瞬間があるのか
白紙のように
なんにも書いてない
なんのシミもない
なんの喜びもなんの悲しみもない
その上を
俺の足だけが動いた

ただ一つ
俺の胸のどこかに
輕い恐れがあつた
それは
やりそこないはしないかという不安だ
やりそこなえば
全部はおかしくもない喜劇になり終つて
人々は俺を許さないだろう
どんなことがあつても
やりそこなつてはならない
そう思つて俺は
ポケットの藥びんを握る
藥びんのガラスの冷たさが
俺の手のひらに吸いついた
…………
もうよかろう
俺は草の中に立ち止まる
近くに 二三本の木立があつて
すかして見ると
それが黒い疎林に續いているようだ
天地をこめて
夜露が降りていた
俺は草の中に坐り
藥のびんと
ウイスキーのびんを出して
膝の上に置く
びんの中のウイスキーが
チャプリとかすかな音をたてた
この藥を ウイスキーで流しこんで
しばらくジッとしていれば
ことはすむのだ
しかし
どうしてこんなめんどうなのだ
黒い空は
なぜスッと倒れかかつてきて
蟻をつぶすように
俺をつぶさないのだろう?
俺が蟻でないからだ
するとこの俺はなんだ?
また始めた
いまさら
戸籍簿をひろげ
身元證明を並べて
俺が俺を確認してみても
なんになるのだ
俺のとなりには
枯枝がある
それらと共に横になろう
そうなのだ
死ななければならぬ理由は
俺には無い
だから死ぬのだ
神よ
お前さんも
ここに降りて來て
この露の中に横になりなさい
お前さんと俺とは同僚だ
長い長い吐息を吐いてから
俺は仰向けに寢た
寢心地は良い
涅槃《ねはん》という言葉が
ヒョイと頭にきたが
ただそれだけのことで
俺は
藥のびんを開けたが
不意にひどく眠いような氣がして
手を止めてジッとしていた
…………
…………

はじめ俺は
自分の耳が鳴るのだと思つた
次に地虫が鳴くと思つた
俺という人間の最後に
地虫がとむらいの歌をうたう
…………
その地虫の聲が
不意にはね上つて
高くひびいたので
笛だとわかつたのだ
しかもごく近い
俺は知らぬまに身を起して
林の方をすかして見た
笛の音はそちらから流れてくる
俺は
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