それがいつの事だか、わからんから、それじゃ、証書を書き換えろと言っているんだ。それが、いやなら、君の方の、この家に対する債権を僕が肩代りをしてこの家の処分は私の方でしようじゃないかと言っても、ウンと言わん。あれも、これも、いやだいやだで、それで、私の方の立つ瀬が有ると思うのか!(落ちている手カバンを拾い、草履を穿く)
韮山 そないな事言うたとて、あんたの方から、わしが借りている金はスッカリで八百円ですぜ。わしの此の家に対する債権は八千円にチョット足りない位じゃ。それを、いくらなんでも、肩代りすると言うても、ケタが違い過ぎる。法外も無い――。
本田 しかし、あんたの八千円と言うのも、いづれ、利に利が積んで十倍にも二十倍にもなった金でしょうが? いづれ最初は五百円か六百円だろう。ところが、私があんたに融通した金は、現金で五百円ですよ。それを忘れて呉れちゃ困る。(三好はヤット事情がのみこめて、あきれてしまい、引きさがって、庭石の上に腰をかけて二人を見ている。登美も、ニヤニヤしながら縁側から見物している)
韮山 忘れやしませんがな。しかし、もう少し待ってくれとわてがこれ程言うているのに、あんだけ手広く事業をなさっている弁理士の本田一平さんともあろうもんが、そればっかりの金でそんなに――。
本田 そいつは御同様でしょう。私の方も、去年以来、場《ば》の方でサンザンなんだ。あっちこっちで、振出した手形の期限が次から次と追って来ている。これが落とせないとなると、なんしろ相手は銀行だから、イナヤは無い――。
韮山 わかっています。それは百も承知している。出来ることなら、わしも何とかしたい。したいけど、何度も言う通り、無い袖は振れまへん。千や二千の金、わての所に無いと言うと、信用でけんかも知れんが、正真正銘、おはずかしながら[#「おはずかしながら」は底本では「おはづかしながら」]、ホンマの話が、此の半月ばかり、五百とまとまった物が無いのです。しゃあから、ここの博士が返して呉れたら、あんたの方も何とかするつもりで、実はこないだ中から血まなこになって夜もロクロク寝とらん言うのが、ホンマにイツワリの無いとこだす。
本田 イツワリの無いとこか何か知らんが、そちらにそれだけの誠意さえ有れば、白山や大塚に出している待合あたりからでも、それ位の金のひねり出せん法は無いでしょう。
韮山 (ベソを掻いたように笑って)冗談もんでしょう。あこいらが、二重三重とガンジガラメに、もう、金になる程のドンヅマリまで[#「ドンヅマリまで」は底本では「ドンズマリまで」]、しばり上げられている事を御存じ無いから、そんな事がおっしゃられる。アハハ。……なあ、本田さん、韮山とも言われた奴が、なさけ無い言い草じゃが[#「言い草じゃが」は底本では「言い草ぢゃが」]、ホンマに、ここいらに枝ぶりの良い木でも有ったら、ぶらさがってしまお思うている位だすぞ。(とその辺を見まわし、丁度本田から詰め寄られてその傍まで来ていたユスラ梅の枝に無意識に触って見ている[#「見ている」は底本では「見てゐる」])ハハ。……(三好を眼に入れて)なあ、あんた、ええと……(名は忘れてしまったらしい)
本田 ……(これも少しボンヤリして)すると、全体、どうすりゃ、いいですか? そんな事言われても――。
韮山 だから、もう少し……(言いながら、半ば無意識にちぎり取ったユスラ梅を見て)こら、綺麗だ。(ポイと口に入れる)うむ。……(噛みながら、又ちぎる)
本田 ……(これもユスラ梅を一つちぎって口に入れる)……だが、すっぱいな。(顔をしかめながら、又ちぎって口に入れる)
韮山 すっぱい。……(次から次とユスラ梅をちぎっては口に入れる)
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(三好は石に腰かけたままボンヤリそれを見ている。登美も縁側に坐って、黙って見ている。……断続する三味線の音。……本田も韮山も、殆んど無心になったように、セッセとユスラ梅をちぎっては口に入れ、その核《たね》をペッと吐きペッと吐きしている。……間)
[#ここで字下げ終わり]
韮山 そいで……(言いながら、ヒョイと本田を見る。〔顔を〕しかめながらユスラ梅をちぎっている本田。韮山、それを見すまして、いきなり下手の庭口の方へパーッと[#「パーッと」は底本では「パーツと」]走り出す)
本田 あ!(ギクンとして、これも韮山を追って走り出す)また逃げるかっ! こら! 待てっ! 韮山! この野郎!(叫びつつ、脱兎の様に木戸口を飛び出して行く韮山を追って消える。これは殆んど一瞬の出来事である)
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(アッケに取られて、その方を見送っている三好と登美……)
[#ここで字下げ終わり]
登美 ……(次第に笑いがこみ上げて来る)フフフ、フフ……。
登美 フフフ……。
三好 なあんだい。フフフ……。
登美 行っちゃった。フフフ、フフ……。
三好 フフ……(むやみと、おかしくなって、腰をかけて居れず、立上って、フラフラ歩き出し、声を殺して笑いながら、ユスラ梅の方へ)
登美 アッハハハ[#「アッハハハ」は底本では「アツハハハ」]、ハハハハ。
三好 フフ……(ユスラ梅をちぎって[#「ちぎって」は底本では「ちぎつて」]口に入れる)なるほどすっぱいや[#「すっぱいや」は底本では「すつぱいや」]。……アッハハハハ、フフ、アッハハハ、アッハハハ……(笑いが止まらない)
登美 ホホホホ、ホホホホ……(これも笑いが止らず、苦しそうにして、編みかけのレースで顔を蔽うて縁側に突伏して笑っている)
三好 アッハハ、ハッハハ (ユスラ梅をちぎって噛む)いいよ! いいよ! いいじゃないか[#「いいじゃないか」は底本では「いいぢやないか」]! なんて事あ無い! 枝ぶりの良い樹かあ。
登美 ク、ク、クク……(縁側に突伏した笑い声が、いつの間にか、次第に泣き声に変っている。肩が波を打っている)みんな、みんな、みじめだわあ。
三好 どうした、登美? アッハハ、いいんだ、いいんだ、泣く奴があるか! みじめな事あ無いさ。みじめであっても無くっても同じ事さ。面白いじゃないか[#「面白いじゃないか」は底本では「面白いぢゃないか」]。みんな追っかけられてる。堀井さんは韮山に、韮山は本田に、本田は銀行に。そいで、それぞれ又別の奴を追っかけてる。佐田も、そいから君も、そいから俺も……ええと、俺もかな? いや、俺が一番ドンヅマリの終点かな。とにかく、なんにも持ってない俺が一番楽なようだ。フフフ、枝ぶりの良い樹は無いか? 少し俺もぶらさがりたくなった。
登美 (泣き声を上げて)三好さんの馬鹿! 三好さんの馬鹿! 三好さんの馬鹿!
三好 ハハ、馬鹿でもいい。馬鹿でいい。馬鹿は、死ななきゃ、治らない――と。馬鹿でいいんだ。……ありがたい!(深く頭を下げ、何かに向って二度も三度もお辞儀をする)ああ! 日々、好日! ありがたい。良い天気だ。……(いつの間にか、頬に涙がタラタラと流れ、光っている)
登美 なさけ無い! みじめだわ! なさけ無いわあ!
三好 なさけ無い事あ無い! ハハハ、なにを泣く?
登美 馬鹿よ!
三好 俺が馬鹿なら、君も阿呆だろ。いいさ。昔、仏《ほとけ》、霊鷲山《りょうしうざん》[#ルビの「りょうしうざん」はママ]にいましき、と言う奴だ。……そら、お袖さんが鞍馬山をやり出した。(なるほど、上手奥で鞍馬山の最初の部分の大薩摩が、殆んど三味線の糸が切れんばかりの烈しさで鳴り出している)……(三好、無意識に左手で顔の涙をブルンと拭いて、気が附くと、レース編みの編み棒をまだ握っている。びっくりして見ていたが、それを握りしめて、自分の左の太腿の上からグッと突き立てる)ツ!
登美 何するのよう、馬鹿!(また泣き出す)
三好 ……(その編棒をポイと植込みの方に投げ捨ててスタスタ縁側の方へ行く)……痛え、やっぱし。……登美、君は、あっちへ行ってて呉れ。
登美 どうするの?
三好 チョット、書きたいんだ。(足の塵をはたいてから上へあがる)これを書く。
登美 これ?
三好 これさ。……日々、好日。日々、これ、好日だ。……なんでもいいから、あっちへ行け。邪魔だ。(机の前にキチンと坐る)
登美 三好さんの馬鹿野郎!(言い放って縁側を廻ってドンドン上手へ立去って行く)
三好 ……(机の上の原稿を見詰めながら、無意識に左手が煙草入れの方へ行く。しかし、その手が中途で止り、しばらくジッとしていたが、そのままの姿勢で、キチンとお辞儀をした額が机に附かんばかりになる。……お辞儀を終って、そのまま坐って原稿紙を見ている)
[#ここから2字下げ]
 (叩きつけるような鞍馬山の三味線が、音量一杯に鳴り渡って来る。それを聞くともなく聞きながら坐っている三好。……オルゴールが三味線に変っただけで、全部が[#「全部が」は底本では「 全部が」]第一場の幕開きと同じ情景である)
 (庭の樹々に陽が照り、明るく、静まっている)
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ](終わり)
[#地付き](昭和十六年六月作)



底本:「三好十郎の仕事 第二巻」學藝書林
   1968(昭和43)年8月10日第1刷発行
※〔 〕内は、底本編集委員による加筆です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:伊藤時也
校正:及川 雅・伊藤時也
2009年6月6日作成
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