妻恋行
三好十郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)さえ切《ぎ》つて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)田地|悉皆《しつきやあ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
−−

[#ここから2字下げ]
 さびれ切つた山がかりの宿のはづれ、乗合自動車発着所附近。上手に待合小屋、下手に橋。奥は崖、青空遠く開け、山並が望まれる。
 夏の終りの、もう夕方に近い陽が、明る過ぎる。よそ行きの装をした百姓爺の笠太郎が、手紙らしいものを右手に掴んで、待合の前に立ち、疲れ切つた金壺まなこを落込ませ、ヤキモキしながら延び上つては橋の向ふを注視してゐる。待合の板椅子の上には下駄を脱いであがり込んでペタンと坐つてゐる娘クミ。よそ行きの装に、見たところ少し唐突に思へる蝶々に結つた髪はよいが、ボンヤリして口を少し開いてゐるのは疲れ過ぎてゐるのだ。クミの膝を枕にしてクークー小さな寝息で眠つてしまつてゐるのは、十歳になる六郎少年で、これは後に出て来る区長の六平太の末の子である。右手に紙製の小さな聯隊旗を握つたままである。――間。
[#ここで字下げ終わり]

笠太 そんな筈、にやあて! 来にやあ筈、無あ。来にや……(しきりと延び上つて見る。――間。遠くに自動車のラツパの響)おい、あれだわい! あれだわい! (言ひながら橋の方へ走り出して行く。ラツパの響遠くなり消える。)あんだあ畜生、高井行きだあ。(戻つて来る。疲れてゐるので石につまづいてヒヨタヒヨタ倒れさうになるのをやつとこらえて)くそつたれ!
クミ ……もう帰ろよう、父う!
笠太 甚次といふもんは、チヤツケエ時分から口の堅い奴ぢやつた。まあ待て、来にや筈無え。
クミ そいでも昨日も朝から待つてゐて、おいでんならんに。処女会や青年団からまでああして出迎へん来て貰ふてさ、そいで、おいでんならんもの。私あ面から火が出よつた。
笠太 あやつ等は、甚次が来たら寄附ばして貰はうといふ下心で出迎へなんぞに来よつたんぢや。慾にからんでさらすで、油断ならんわ。甚次が昨日着かなくて却つて都合よかつたのだ。
クミ 父うぢやとて、慾ぢやが。
笠太 あにをつ※[#感嘆符疑問符、1−8−78] あにが、此のオタンコナスめ、貴様の亭主にならうと云ふ男ば迎へに出るが、あにが慾だ! 親の慈悲ば、ありがたいと思へ。
クミ ……(欠伸をして)くふん。甚次さんのお嫁さん、甚次さんのお嫁さんと云ふちや、処女会の人が私の事を、ひやかす。私あ、なんぼう、てれ臭いわ。
笠太 あにを! ぢや手前、甚次、嫌えか?
クミ 嫌えにも好きにも、顔も憶えちよらんに。
笠太 今に見ろ、今に見ろ。永年東京で磨き上げた男ぢやぞ、こねえな山ん中で山猿共の面ばつかり見てゐた手前の眼がでんぐり返らよ。ポーツと来ねえように気をたしかに持つちよれてば。アツハツハツハ。アハハハハ。(一人むやみと上機嫌に哄笑するのである)アハハハ。辺見笠太郎の体面に関すらよ。あんまりだらし無くおつ惚れんな。ハハハ。
クミ んでも、来なきや仕様あんめ。今日も、はあ、もうお日さんが一本松の股んとこまで落ちたで、日が暮れらね。(笠太郎ケロリと笑ひ止む)
笠太 読んで見ろ。これ読んで見ろえ。
クミ 何度読んだとて同じぢや。小生一生の事に就き伯父上に御相談致したく、だ。来月二十八日篠町着にて御伺ひいたす……あんまり何度も読まされたで暗誦してしまうた。九月の二十八日とは昨日ぢやが。
笠太 そこが二十四や五の女子にや解らんとこよ。積つて見ろえ、先は安多銀行てえ、あんでも東京でも一二の所に務めてゐる身体だ、都合で一日伸びと云ふ事有ら。うん。
クミ そりや、さきおととし来た手紙に書あて有つた事ぢやろが。……あああ。私、もう帰るから、自動車賃くれろ。
笠太 帰んなら帰れ。金は無え。足が有ら、けつ。三十銭なんて払へつか!
クミ 昨日から三度行つたり来たり、四里ぢやから三四十二里、私あ太腿さシンが入つたわ。乗合が有んのに乗らねえんだもん。乗合通はすの、んなら、村でことわればええに。
笠太 此の女郎! オタンコナスめ、あんにでもケチを附けるたあ、貴様あ、六平太の小父きにソツクリぢや。帰れ、クソ!
声 あにが私にソツクリぢやね?(言ひながら、当の妻恋六平太が、酔つた顔をして右手から現はれる。山高帽をかむり、袴を着けてゐるが、どう云ふつもりか、袴の両モモダチを上げてゐる。待ちあぐねて、直ぐ近くの茶店に行つて一杯ひつかけて居たのらしい)ああん、帰れとは?
笠太 ははん? ……あんたも、もう帰つてくれろ。
六平 帰つてくれろ?
笠太 ははい。もう、こんだ
次へ
全10ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング