りあげた人間や物の生ける姿は、ごく僅かしか迫って来なかった。私の感受が、もし大してまちがっていないとすれば、これは、この人たちの手法と効果との、全く致命的なソゴではないだろうか。そして、なぜに、こんなソゴが起きるのだろう?
 その理由を私は次ぎのように考える。
 いわゆる「味もソッ気もない」客観的手法や「散文精神」と言ったような「非情」の把握――つまり早取写真式の手段というのは、もっと正確な言葉で言えば、現実の真相を、よりリアリスティックにとらえたいという欲望と必要から来たルポルタージュ方式のことである。そして、ルポルタージュ方式にとって、不可欠なものは第一に、そのルポをなす当人の自我の知情意が高度にそしてキンミツに確立されている事だ。次ぎに、そのルポされる現実の中を「千里を遠しとせず」に当人が身をもって通りすぎて来るだけの努力(即ち「足で書く」ということ)である。この二つが、二つながら、これらの人々に不足している。自我の確立が不充分又は放棄されている事は前述の通り。そして、たいがい坐り込んでムヤミと酒を飲んだり、せいぜいバアやダンスホールなどを歩いて、妙な婦人や文学青年やその他あれや
前へ 次へ
全274ページ中40ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング