レツであることに就ては、快く思うわけに行かない。それは、たとえば、買ったシャツのボタン穴が、かがってなかったり、左右の袖がアベコベに取りつけてあれば、シャツ製造人や販売人に対して快くは思えないのと同断であろう)
 この手法の特色の一つは、主観的、観念的な表現を避けて、もっと即物的《ザッハリッヒ》な感じの作品を書くのに有利だという点である。かつて、武田麟太郎が「味もソッ気も無く書く」とか「散文精神」とか言っていたものだ。たしかに、現代生活のひろがりと複雑さと速度は、或る意味でこのような手法を要求しているし、現にこの手法が正常に駆使されれば、われわれはフィクションを感じる前に客観的現実そのものを見るような感銘を受けることがある。しかし、この人たちの作品からは、そのような感銘を受けることは稀だ。手法だけは「味もソッ気も無く」モウレツに早取写真式になっているクセに、それを読んでわれわれの第一に感じるものは、逆にかえって、作者の主観や観念である。舟橋や田村や丹羽や井上や石川や火野などの最近の作品を読過して最初に私に来るものは、彼等の持っている「人生観」みたいなものであって、彼等がその作品の中で取
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