くとも、その作品の基調やゼスチュアや言外の気分として、それをやっているのである。必要とあれば、その具体的な例をあげてもよい。そして、それが、たいがいは、小説製造販売業者としての自己保存欲からの「失地回復」の手段としてである。
作家としての誠実さの一片があったら、これらの作家たちの中に、むしろ、どうして一人の頑迷な者があって、当世出来合いの「民主主義者」どもに向って「俺のやった事の、どこがまちがっているんだ?」とズブトク反ゼイする者が無いのかとさえ私は思う。また、「俺は有罪だ」と言いきれる者がいないのかとさえ思うのである。民族と国家と世界への連帯性において自我の内部を、多少でもシンケンに検索している精神にとっては、軽々しく「総ザンゲ」みたいな事をする、しないは問題で無い。場合によって一言も言わなくともよいのである。だまって深く追求していればその追求の姿の実体は、必ず作品の基調の中に現われる。「作品いずくんぞかくさんや」である。それがほとんど無い、この人たちの作品に。ムヤミやたらに豊富に有るものは「世相」と「肉体」と「ストオリイ」である。まるで世相は自己を抜きにして存在するかのように。肉
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