獄が畳みこまれていると思うのか。現に、バルザックやスタンダールの諸作品の冷鉄のような客観の中心に、一貫して燃えさかり、そして燃えさかる事によって、彼等の「客観」を芸術としての渾一にまでキタエあげているものは、彼等の白熱した主観、つまり自我であり、終始一貫して自我でしか無いことに気が付かぬ者は、メクラに近い者であろうと私は思う。
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自我とは、もちろん、生物学的に他のものから引き離されて存在している自分一個の内部の問題――それの生理や心理や情緒や死生観などを意味するのと同時に、外部――自然や他人や階層や民族や社会や世界――との有機的な関連において認識される自分のことだ。これは理論的なメガネで眺めてそうなるのではなく、事実そのものがそうなのである。知識と教養によって訓練された人間は皆、その知識と教養の度合いにしたがって、自己のうちに、この内部と外部を持ち、そしてそれを何かの形でか出来るだけ矛盾の無い統一体として処理したい欲望を持つ。そして作家は、当人が好むと好まざるとに関係なく、より強く作家たろうとすれば、本質的自発的に知識と教養に訓練された人間のチャンピオンたら
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