者の手法に似ている。それはそれでよいだろう。近代小説の一つの行き方として必然性も無いことも無い。そして、この手法でもどんなに立派な作品でも書けないことは無いようである。たしかにそれは、「私小説」だけを小説道の全部のように思っている態度からの一展開にちがいない。
だが、けっきょくは、「眺める」のは自分であり、「描く」のは自分である。自分が、たえずキタエられ、反省され、検索されて、集中的に確立されていなければ、描かれたものは世相は世相でも、新聞の三面記事をあれやこれやと切り抜いてつなぎ合せたようなものになるか、又は、ナニワ節のサワリの文句みたいなように、義理人情のオツなところを「歌う」ことになる以外にあるまい。現に、この人たちの作品にそんなふうな物がだいぶある。そして、ありがたくも因果なことに、ピンからキリまでのあらゆる文学の持っている鉄則と、われわれが本来的に持っている感受性とのおかげで、彼等がそれらの作品の中で、彼等自身について一言も半句も語らなくても、彼等の「自我」がどんなふうな状態に置かれているかが、ほぼわかって来ることである。そして、私にわかって来た限りでは、それは、あまりおも
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