ハッキリした答えは私にはない。しかし今のところ、そんな気がする。この点については、ハンス・カロッサの小説が提供している方法などを参照しながら考えて見る価値があろうし、また、実作品において、阿川弘之および新しいたくさんの作家たちが、実践して見る価値があろう。もし万一、ドキュメントとフィクションが同時に採用されて双方が相殺しないばかりでなく、互いに互いが作用し合って二プラス二が六になるようなザッハリッヒを生み出すことができるようなことになれば、小説のための新しい広大な境地が開けるだろうと思う。
 この作品について、もう一つ言い加えて置きたいことは、作中の青年たちが、ほとんど全部、あの戦争中、戦争の中心地帯に生きながら、戦争に対してひどく冷淡であるように書かれているが、私にはこれらの青年たちが戦争を肯定するにしても、否定するにしても、ここで書かれているような熱度の低さで生きていたとは信じられない。それは事実でなかったような気がする。実は作品全体がザッハリッヒな力で私に迫って来なかった理由の一つに、それがある。つまり作者は、その点でほしいままに事実をまげているのではないだろうか。またはそ
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