あって、はじめてザッハリッヒが生まれる。別の言い方で言えば、現実を認識するにあたって、自我が燃焼して現実が再編成され再生して、はじめて冷たい事実以上にリアルな現実感が生れる。たとえば、志賀直哉は「真鶴」の中で、対象を見つめ抜いて、それを「自」か「他」かわからぬところまで追いつめて、最後に「決定」している。ために、主人公の子供は、ザッハリッヒに生き動いているのである。(――実は、それが「表現」の本質であると私は思う。)「あ号」は、そのいずれでもなく、しかも、右のようなドキュメントとフィクション双方の持ち得るメリットを二つながらあわせ取ろうとした作品だと思う。非常な慾張りだ。慾張りは大いに結構である。しかし双方が二つながら中途半端に――つまり失敗しているために、互いが互いを相殺して、プロバブルな実感しか生れて来なかった。
 そして考えるのは、ドキュメントとフィクションは、もしかすると結局は、一緒にすることのできないものではなかろうかということだ。どこまで行っても相殺するのではなかろうか? つまり、それぞれ、いずれか一つに徹底する以外に、ザッハリッヒを生み出すことはできないものではなかろうか
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