ては、「ザッハリッヒなものを作品に附与するための手法」としてこちらに来てしまうのである。いわば写真に写された「物」よりも、写したカメラのレンズの位置や質が強く来てしまう。目的が達成されなかったという意味で、やっぱりこれは失敗であろう。そして残念ながら、このような手法は、私の見るところでは、すべて失敗する。
現代の映画が、新しい芸術的手法として取り上げつつある要素にドキュメンタリイないしセミ・ドキュメンタリイがあるが、これが現在までのところ、みな不成功に終っている。その理由はいろいろあるが、最も大きな理由は、ドキュメントの部分と演出された部分とが互いに相殺するからである。それと、この場合が似ている。
ドキュメントというものは、それを生んだ大前提ポイント・オヴ・ヴュウに対して、まったく疑う余地のない客観的に完全な信頼性が与えられていなければ、ザッハリッヒは出て来ない。たとえば『戦歿学生の手記』中の一篇の方が、この「あ号作戦前後」よりも、「美」はどうか知らぬが、「真」と「力」をわれわれに感じさせるのである。
またフィクションの場合は、作者が現実に向ってした「認識の戦い」の末に「決定」が
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