かれたのではない。あくまで小説として書かれているのである。客観的事実の記録は、フィクションにリアリテを附与するための裏打ちとして提出されていると見なければならぬ。つまり記録は手法として使用されている。もちろん、記録は手法として使用されてよいと思う。
そして作者の着実さは、かかる手法を一応駆使し得ている。記録的要素は作品の中で全体のオーケストレイションを妨げていない。消化されている。一応は、である。そのかぎりで、一つの新しい成就である。しかし同時に、実はそのようなものよりも、もっと大事なザッハリッヒな実在感をこの作品が失っているのも、実はそのことから来ていると私は思う。このような程度の、また、このような形での記録的要素の処理のしかたでは、実在感は充分には生まれて来ないだけでなく、往々にして、逆にそれが阻害されやすい、この作品は阻害された例だ。そして私がこの作品から打たれなかった原因は、そこから生まれて来ていると思う。つまり、フィクション全体にザッハリッヒなものを附与するために提出された客観的事実の記録が、ザッハリッヒなものを与える前に(または、部分的には或る程度まで与えながら)全体とし
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