してほとんど激烈と言うに近いものなのだ。もっと強く来そうなものだと思う。それが何か白々と――と言えば言い過ぎるが、とにかくピタリとこちらの肌に迫って来ない。どうしてだか、よくわからない。もちろん私のがわの責任もあろうが、作品にもその理由がありそうだ。それを考えて見た。
 第一に、作品に描いてある諸事実が事実としてプロバブルなパスポートを持っているだけにとどまっていて、それらの客観的な実在についてまったく疑いを※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]しはさむ余地が起り得ないほどに煮つまったものでないことである。
「さもありなん」程度であって「そのものズバリ」の実在感にとどいていない。記録物ないし記録的要素の上に立った作品に往々にしてあるところの「二重の虚偽の感じ」はまったくないが、ザッハリッヒな圧力は来ないのである。作の基調になっている、また部分としても最も大きな部分を占めている記録的な要素がザッハリッヒに「物それ自体」として来る以前に「ザッハリッヒな感じを生み出すための小説作法」として来てしまうのである。もちろん、現実の取り扱い方が着実であるために、よく
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