―と言ってもピタリと当った言葉とは言えないが、さればと言ってチョットほかに言いようのない高級な趣味的気質――に貫かれているものである。しかも、その出生と成育の過程の上で彼をマルクシズムの方へ決定して来る生活的経済的条件がそろっていたようには見えない。結局は「時代」の影響やインテリゲンチャとしての「良心」と言ったようなものが彼をマルクシストにしたのであろう。その点宮本百合子などと同じだろうと思われる。それはそれでよかろう。彼の敏感さの証明として賞讃されてもよいことがらではあっても、非難さるべきことがらではあるまい。しかし、それがそうであるだけに、彼のシステムがチミツになればなるほど、政治家としての行動や、評論的活動の範囲内では、彼が到達している理論的高さの平面で自然にフルに自分を展開することができるが、文学創作の世界ではかならずしもそうは行かない。中野の場合は、そう行っていない場合だ。しかも、ひどくそう行っていない場合である。
 これは芸術というものの本質から来る制約なのか、それとも中野の質のために起きる限界なのか。両方だと私は思う。マルキシズムと芸術は、それぞれが高度に追求された場所で
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