開する時のように彼のトップのところで、彼のフルのところで動いてはいない。つまり、カンカンになって書いていないのだ。もちろんナメて書いているのではないが、自分の持っている手段と精力のありったけをつくして、そのトッパナのところでノルかソルかと言った式に自分を働かしてはいないのである。中野は理論的展開をやったり、特にポレミックの場合には、それができる人だし、現にやっている。小説を書くのにそれをしないのは、やれないのであろうか、何かの考えがあってやらないのであろうか。どちらにしろ、そのへんに小説家中野の重大な特質も有るようだし、そして彼の小説が重要なものを欠いでしまうのは、そういうところから来ているように私に思われる。
 昔私の知っていた画学生にこんなのがいた。美に対して非常に大きな能力をこの画学生は持っているらしく見えた。絵画に対する彼の鑑賞力や批判力は鋭く、そして、おおむね正鴻を得たものであった。美学や絵画理論について彼が樹立したシステムは相当に高く堅固なものであった。絵を描かしても、うまい、ただし、それはデッサンやクロッキイやスケッチにかぎられた。タブロウは描かない。たまに描いても、まと
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