ぶち当って燃えたところで答が出されている。そこには人間を見下して軽蔑しながら憐むところの「神」の散大した視点はない。これこそ現代小説が自然に到達した方法である。少くとも我々が自然主義を通過して到達した方法である。つまり、広津はそのドキュメントやエッセイでもって、自然にそして正当にそこに到達しているのである。だから彼のドキュメントやエッセイは彼の小説よりもズット正当な意味で現代小説なのだ。しかし彼自身そうは思わないらしい。そしては「小説」を書く。その時にはかならず机の塵を払い原稿紙に向ってむづかしい顔をして対し、一言に言うと文学青年的に緊張して、自身の中の一番古めかしいところ、十九世紀の隅っこまで後退して書く。まるでそれは、卵を生む時にかならず小屋の隅へ退くニワトリの習慣のように厳粛な、矯正しがたい、そしていくぶんコッケイな習慣だろう。
 言うまでもないが、作品の中で「我」の問題を解決して行くと言うことは、かならずしも作中で直接自分のことを書くとか、いうところの私小説を書くとか、直接自分に関係のある問題を取り上げるとかいうことを意味しない。要は、それを自分が眺め、感じ、考えて、自分として
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