主義者として純粋でないか、ナマケモノであるからだ。広津が死なないのは、初期のためではないだろう。自然主義者としては純粋でないもの――つまり、もっと広い社会性だとか理想主義的な要素をあわせ持っているからだ。それに、ナマケモノであることも、事実だ。すくなくともモーパッサンほど小説を書くことにキンベンでないことは事実だろう。とにかくモーパッサンと小説との関係と、広津と小説との関係は、実はちがう。だのに小説を書く時に広津が取り上げる方法はモーパッサンの方法である。そこに問題があり、ここから困りものの古さが生まれて来る。
先に私は広津について「あれだけすぐれたヒューマン・ドキュメントを書き得る広津が、何故にこのように下手な小説を書くか、また書かなければならないか」と書いたことがあるが、それがこのことに照応する。ドキュメントやエッセイの中で、彼は人間としての自分の高さに立って、同じ高さの平面に立っている人間を眺め、ものを言いかけ、語る。だから他の人について語る場合にも、その中で彼は彼自身の自我の問題を処理している。表現は「他」と「我」との切線の上にうち立てられている。別の言葉で言えば客体と主体が
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