者がそのようなことを意図しているのだとは思えない。ただ無意識にそうしているだけである。よって来るところはまずこの作家の感覚の鈍化だ。次ぎに文章的表現についてのモノグサである。二つとも根本的には現実に対する「火」の消耗から来ている。大事なことは島崎藤村におけるがような、部分々々の描写におけるなまなましいものを回避することによって、全体としての、より大きな現実感を生み出すという方法から、これは区別されなければならない。広津が意図しているものは藤村あたりとはまったく違うと見てよい証拠があるからだ。それ故に私はこれを「下手クソ」と見る。そして下手クソはあらゆる場合に好ましいものではない。「ひさとその女友達」から、その他の弱点や、更に多くのすぐれた点を拾いあげることはできる。しかし、それらはさまで重要なことではない。そんなことよりも、この小説から私が考えたことでもっと根本的な、もっと一般的なことがあるからそれを書く。
それはこの小説の「古さ」とこの小説における作者自身の自我の位置のことである。もちろんこの二つは相互に関係している。
先ず古さについて言うが、たしかにもう古い。古いことが善いか
前へ
次へ
全274ページ中247ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング