に堅固な価値の認識の手がかりは与えられない。そういう点で、前の青野や正宗や宇野の批評に似ている。ただ、こちらにはホルモンがある。だから刺戟する力がある。刺戟は、しかし、あちらを向いたりこちらを向いたりして取りとめがありません。一言に言って、この人たちは、作家が小説や戯曲や詩を書くのと同じように批評を書くのです。批評家とその批評の関係が作家とその作品との関係と同じなのです。または、作家になりそこなって批評を書いているとも言えましょう。良い所も悪いところも、彼等が本来作家ないし、作家のなりそこないであるというところから来ています。彼等が彼等の批評の中で確立するのは、どこまで行っても彼等自身以外の何者でもありません。小林がドストイェフスキイやゴッホや鉄斎をいくら攻め立てて行っても、それらの人間たちの姿は結局は浮びあがって来ないで、小林自身の人間――もっと正確に言えば小林の脳細胞のシワの絵図面みたいなもの――が浮びあがって来るきりです。そして、それはそれでよいのです。また、福田恒存における太宰治なども同じことでしょう。それはそれでよい。しかし、いや、だから、なるべく、ヘラズぐちは叩かぬ方がよい
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