ろうか? それも、わからないことはないような気もする。しかし、よしそれが差し当り仕方のないことであったとしても、われわれはそれに抵抗し、そして克服するための努力を捨てるわけには行かないであろう。つまり、冷たく散大した、気味の悪い、そしてまったく荒蕪な「神の視覚」を拒否することをである。それが「小説」を自己崩壊に導くものであるならば、にわかにそうはできないという考え方もあろう。しかし、事実は逆だ。十九世紀以来の小説の歴史は、それ自体として「神の視覚」を拒否して人間の視覚に近づこうとする歴史であったし、現に小説の地盤が人間の視覚に立てば立つほど、小説は人間にとってより興味あるものになり、より喜ばしいものになり、より有用なものになって来つつあるのである。
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ぼろ市の散歩者 ※[#ローマ数字2、1−13−22]



「よごれた汽車」――中野重治(「人間」十月号)
「吉野さん」――同人(「中央公論」十月文芸特集号)
「夜と日のくれ」――同人(掲載誌を忘れた)
 この二、三カ月の間に右の三篇の中野重治の小説を読んだ。わざわざではなく、自然に目にふるるにしたがって読んだ。どれにも感心しなかった。感心しなかったものについて物を言っても、しかたがないと思っていた。ところが、先日何かのキッカケで、右の三篇の小説のことをかためて一度に思い返して見る機会があった。すると、そこにおもしろい問題がいくつかあることに気づいた。そこで右の三篇の一つ一つを、もう一度読みなおして見た。
「よごれた汽車」は、青森から東北へ走っている夜汽車内の短いスケッチである。引揚者やそうでない老若男女の姿と会話が点描してある。「吉野さん」はそれよりもいくらか長い作品で、戦争中に「わたし」が知り合いになった、一風変ったおもしろい気骨を持ち、英詩を作る老自由主義者のことが書いている。淡々と記録風な書き方がしてある。「夜と日のくれ」は、ちかごろの郊外の夜道が物騒なことをつとめ人の兄が同じく働きに出ている妹の身の上を案じる形で描いたもので、これまたごく短いものだ。
 三つとも、うわついた書き方はしてない。カタギなものだ。しかしヘタな小説だ。それがただのヘタではない。ヘタを気取っているので、読んでいると実に妙な気持になるヘタさだ。しかしそれだけならば、かくべつ新しいことではない。中野が小説を書くのにカタギでヘタで、そしてヘタを気取るのは今にはじまったことではないから、そのことから今特別の刺戟を受けたりはしない。私の考えたのは、それとはチョットちがったことである。それはこうだ。
 この三篇を「小説」と言われても、別に私に反対すべき理由はない。雑誌の小説欄に組んであるから小説なんだろうと言ったふうのシマリのない気持で私は雑誌小説を読んでいる者だから、どんなに小説らしくない物を読まされても、たいがいびっくりはしない。やあヘンテコな小説だなあと思って過ぎてしまう。
 この三篇を読みおえた後でも、なんだかわかったようなわからんような、おかしな小説だと思い、そのわからなさ加減が私に不愉快であったが、それはそれとしてそれ以外に、またそれ以上に、三篇とも小説として何か異様に欠けているものがあるのを感じた。しかも、かなり重要なものが欠けている。その欠けかたまたは欠けた理由または原因として私に考えられたものの中に問題があると思われた。
 第一に、中野は作家であるよりも芸術理論家ではあるまいかという彼についてかねて私の抱いていた見方を、もっとハッキリと強くしたこと。というのは、この三篇の中で中野は、芸術理論を展開する時のように彼のトップのところで、彼のフルのところで動いてはいない。つまり、カンカンになって書いていないのだ。もちろんナメて書いているのではないが、自分の持っている手段と精力のありったけをつくして、そのトッパナのところでノルかソルかと言った式に自分を働かしてはいないのである。中野は理論的展開をやったり、特にポレミックの場合には、それができる人だし、現にやっている。小説を書くのにそれをしないのは、やれないのであろうか、何かの考えがあってやらないのであろうか。どちらにしろ、そのへんに小説家中野の重大な特質も有るようだし、そして彼の小説が重要なものを欠いでしまうのは、そういうところから来ているように私に思われる。
 昔私の知っていた画学生にこんなのがいた。美に対して非常に大きな能力をこの画学生は持っているらしく見えた。絵画に対する彼の鑑賞力や批判力は鋭く、そして、おおむね正鴻を得たものであった。美学や絵画理論について彼が樹立したシステムは相当に高く堅固なものであった。絵を描かしても、うまい、ただし、それはデッサンやクロッキイやスケッチにかぎられた。タブロウは描かない。たまに描いても、まと
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