いる。しかし、支配的にドミネイトするものは、それらでは無い。自我内部の本質が外界とふれ合いつつ生き動いて行く過程――その過程の中の最もいちじるしいモメント、モメントが自我が「打ちくだかれ」るという事がらである――が、イヤオウなしに、ノッピキならず、そうせざるを得ないという形で、そうしないとその後の自我の存立が危くなったり欠如してしまったりするから、つまり極端な言い方をすれば「そうしないと生きて行けないから」生み出して行くファンクションである。それが軸だ。そして私には宮本百合子は打ちくだかれたことの無い人のように見えるので、前記四つの動機や衝動の中のどれか一つか二つ、又はその全部が組み合わされた所から小説を生みだしつづけている人のように思われる。そして、彼女の小説のすべてが、その根深い所で、ある時は修身教科書になったり、ある時は[#「ある時は」は底本では「あの時は」]戦勝の歌になったり、ある時はカッタツで勁い自由画になったり、そしてたいがいの場合に「この人を見よ」式のナルシシズムの要素を多分に含んだ自伝風のものになったり、そしてそのすべての場合に堂々たる自信に裏打ちされているのは、そのためのように思われるのである。それは、けっこうな事である。しかし、そのような芸術が、或る種類の人間たちにとって、芸術としての第一義的な興味と意義をあたえ得ないのも、やむを得ない。或る種類の人間たちと言うのは、社会にギリギリ一杯の所で生き、その中で往々にして自己の弱さと低さを痛感し、しかしそれでもできる限り強く正直に正しくそして幸福に生きようと力をつくして努め、つとめつつも往々にしてそれがうまく行かないで「打ちくだかれ」ている人間たちのことだ。そのような人間が、世の中にいっぱいいる。むしろ、今の世の中は、そのような人間たちで満ち満ちているといえよう。私もその一人だ。つまり、だから、私にとっては宮本の小説は、誰かが言った「第二芸術」なのだ。それは、或る程度まで美しい。立派である。どっちかと言えば有った方がよい。しかし無くても困らない。結局有っても無くてもよい。
第二に、宮本の政治的イデオロギイのことだ。彼女の左翼的イデオロギイは、ニセモノでは無いように私に見える。しかし、今言ったように、彼女は「打ちくだかれ」たことの無い人に見える。だから、彼女の左翼的イデオロギイは主として観念的・知性的・
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