れ」るということは、具体的現実的に絶望的状態におそわれて、そこで実際において絶望するということだ。絶望的状態におそわれたり、絶望したりすることは、誰にしても望ましいことでは無い。避けられるものならば、極力避けた方がよい。現にたいがいの人が避けようとする。しかし、いくら避けようとしても、避けられない事だってある。そして人は苦しんだり不幸になったりする。だから宮本が打ちくだかれた事が無いのは、宮本にとって幸福な、おめでたい事だ。よろこんであげればよい事であって、どうひねくって見ても彼女にケチをつける理由にはなりっこ無い事である。だから、それはそれでよい。
 しかし、私はこの事に関して次のような二、三の事を考える。
 第一に、そのような人が近代的な意味における芸術創作活動をする、しなければならない内的な必然性――というよりも芸術創作への衝動をどうして持ちつづけるのだろう、どこから生み出して来るのだろう? という事だ。私にはその点がよくわからない。なぜなら、私の持っている芸術及び芸術家についての知識から言っても、私自身の経験から言っても、「打ちくだかれ」た人、そしていつでも何かの意味で「打ちくだかれ」つつある人だけが、内的な必然として芸術を生むし、生まざるを得ない者だからだ。つまり、打ちくだかれた人、打ちくだかれつつある人以外の人が、なぜに芸術活動をしなければならないのか、私にはわからないからだ。もっとも、それ以外の動機や衝動から生まれる芸術も無いことは無い。それは第一に戦いに勝ってガイセンしてくるギリシャ人の口から、ひとりでに流れ出して来る「戦勝の歌」のようなもの、第二に原始人や子供が再現本能やモホウ本能や生産本能からほとんど無意識に生み出す絵や歌や句のようなもの、第三に時間と物質にめぐまれた人間が趣味的に習慣的にそして虚栄心の満足のために生み出す手芸美術や華道芸術のようなもの、第四に或る種の倫理的タイプのインテリゲンチャが、社会的・政治的なゾルレンを観念的に自分に課して、その目的に添わんがために生み出す文章芸術のようなもの。――四つとも、たしかに芸術ではある。しかし近代的な意味での芸術ではない。すくなくとも、人間の営みの場で高度の必然性や存在価値を要求し得る芸術では無い。もちろん、近代的な、そして高度の必然性や存在価値を要求し得る芸術にも、前記四つのものの要素は含まれて
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