いで立っている人を唯単にそれだけの理由で真に権威あるものと信じてしまったり、十人中の九人が「こうだ」という事を内心「そうでは無い」と思ってもそう言えないばかりで無く、いつの間にか自分が「そうで無い」と思ったのがまちがいだと考えるようになったり、自分および他人が実際において進歩的であるという事がどのようなことであるという事によりも、一般から進歩的であると言われる事の方により多くの関心を持ったり、したがって又一般から「進歩的だ」と言われている者の中の退歩性やまちがいを指摘すると或る種類の人たちが直ぐに「反動だ」と言うからそれをホントの反動かと思ったり、それを逆に言うとホントの反動になってしまうことを恐れるよりも他から反動だと言われることの方をよけいに恐れたり――つづめて言えば、衰弱しきった精神カットウのさなかにあるから、事がらをチョクサイに認め、認めたものを端的に言い切ることができにくくなっている。だから、特に現在、言って見れば、時の動きの力関係の中で丘を背負って立っている宮本百合子の、又同時に彼女のこのように強固に複雑なコンプレックスの中に、多分宮本自身にもそれから或る種類の人々にも気に入りそうにはないところの「ブルジョア気質」を識別したり言い立てたりすることは困難であるし、そして実を言えば好ましいことでも無い。まったく、こうしてこれを書きながらも私は、なんという言いにくい事を、「悪趣味」に、言おうと俺はしているのだろうと我れながら不愉快に感じながら書いている。
 しかし早かれおそかれ、いつかは誰かが、これは言わなければならぬ事だと思う。それに、私の目には、そう見えるのだ。そう見えることを、そういうことは、しかたの無いことであるばかりで無く、ムダな事では無い。自分勝手な例を引くならば、童話『ハダカの王様』における子供のように、王様がハダカに見えたらハダカと言い切ってもよいし、言い切った方がよい。万一、実は王様はキモノを着ていたのだったら、その子供の目は節穴だったという事になるだけだ。宮本のブルジョア気質を指摘する私の指摘にまちがいがあったら、私の目は節穴だと言われてもよかろう。その覚悟はしている。
 もうすこし続ける。

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 宮本百合子という人は、これまで、かつて一度もホントの意味で「打ちくだかれ」たことの無い人のように私に見える。「打ちくだか
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