有るが、あまり長くなるから、ここには書かぬ。私が宮本百合子をブルジョア気質の作家だと思う理由の説明としては、さしあたり、これ位で充分であろうと思う。そして、ここでは便宜上、『伸子』という作品一つだけを取り上げて説明したのであるが、しかし、以上あげたような特色は、多かれ少なかれ、又、場合によっては濃かったり薄かったり、裏返されたりして、精巧なヴァリエーションを付けられて、他のおおかたの作品に共通して現われている。『伸子』がそうであるように、宮本の作品の大部分が自伝的要素を多く持っているから、このことを認めるのは、それほど困難では無い。ただし、実は、それだけに又、それら全作品に現われているこれらの特色やチョウコウは、彼女の政治的イデオロギイ(それはたしかに、それ自体としては、かなり尖鋭にタンレンされたものである事は事実のようである)や、彼女のリアリズム小説家としての創作技術(これまたたしかに、それ自体としては、かなり高度にエラポレイトされたものであることを、認めないわけには行かない)や、彼女の人間としての重厚さ(――人は彼女について、この点をあまり言わないが、私はこれを彼女の持っているもののなかで、ほとんど最高に貴重な資質だと思う。重厚さと言うのを、「シブトサ」と言ってもよい。「保持力」と言ってもよい。「強健な生命力」と言ってもよかろう。あらゆる意味でウスッペラで無いことだ。率直で、シッカリと堂々として、ネバリのあることだ。――そして、もちろん、おもしろい事に、この重厚さもブルジョア気質の重要な性属――すくなくとも、オーソドックスなブルジョア的出生と生活と教養の中からオトナになって来た人間に概して特有な属性であることを見おとしてはならぬ。――これで、私が「ブルジョア的」という語を、唯単に一面的に否定的な意味にばかり使っているのでは無いという事が、ハッキリわかってもらえたろうと思う)――などと、非常に強固に複雑に組み合わされているために、それだけを明瞭な形で認めるのは、別の意味で、かなり困難だとも言える。それに、われわれ近代の――とくに現在の日本のインテリゲンチャは、いろいろの種類の被サイミン性や強迫観念やオクビョウさや雷同性などに深く犯されていて、たとえば、大きな声でシャベル人の方が小さな声でシャベル人よりもえらいのだと思いこんだり、権威あるもののように堂々とたじろがな
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