異様で「ハクライ」だからだろうと思われる。以上三通りに考えてみた。そして、第一のように考えても第二のように考えても第三のように考えても、そのいずれもが、非常に強くハッキリとブルジョア的な「好み」と「趣味性」と「習慣」を現わしている事がらだと思った。
次に、この作者がこの作品の中でトギすましている冷酷さ。全く無反省な敵本主義的な冷酷さが、私には強い印象を与える。実にそれは小気味が良い位のものである。この伸子やこの作者が無反省であるなどと言えば、人はチョット変に思うかも知れぬ。しかし、よく読んでみようではないか。なるほど、伸子も作者も、あらゆる個所でいろいろの反省をしている。又は、しているらしく見える。しかしそれは、いつでも伸子の立場を根本的には危くしない範囲内でのみなされている反省である。だから、それはホントは反省ではない。ばかりでは無い、逆にそれらは「兇器」になっている。というのは、とにかく形の上では伸子はムヤミに「反省的」な人間として描かれており、その伸子に相対する夫は珍らしく「無反省的」な――というよりも精神的にひどい盲点を持った人間として描かれているために、読者の目の前でキズを受けるのは、いつでも夫であり、とくに扱われている問題の性質上しまいに行くにしたがって、この夫は完膚無きまでに手キズを負わされてくる。その手段と経過と結末は、二重三重に念入りで、ほとんど残酷といってもよい位である。それはダムダム弾式の残酷さだ。入り口は小さく、それとなく見えるが内臓をズタズタに引裂く。むしろ、この作品が、たとえば「別れたる妻が別れたる夫に送る手紙」と言ったふうの形と態度で書かれ、その中でその妻が直接的に夫の非を鳴らし、悪をあばき、嫌悪と憎悪を叩きつけた方が、まだしも、相手の男を傷つける事がこれよりもすくないであろうと思われる。これは冷酷というものである。そしてこの冷酷さは近代的リアリズム小説作法が命じている冷酷さとはちがう。近代的リアリズム小説作法の命じている冷酷さは、作中の人物のことごとくを、ホントに等距離に置いて、同時に突き離して見るという事である。『伸子』においては、そうなってはいない。これは、ただ単に非人間的なまでに念入りにエゴイスティックな、二重にマキアヴェリ風な冷酷さである。そしてそれはもちろん、ブルジョア気質のチョウコウの一つだ。
チョウコウは、まだ他にも
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