論理的な思惟から生れ育って来たもののようである。だから「純粋」で「精密」で「勁」い。それは、やっぱり或る程度まで貴重なものである。しかし、それはホントに純粋で精密で勁いと言えるだろうか? 疑うのは悪いけれど、そこの所が私には、よくわからない。今年の四月号の「婦人公論」に宮本顕治が「わが妻を語る」という副題で、宮本百合子のことを書いている文章の中に、この事に照応する一節がある。
「同時に、かたよった幾種類の意見(――宮本百合子についての)もある。たとえば、彼女が中流上層の小市民の娘として育ったことが、彼女の文学的社会的成長のめぐまれた条件であるかのようにいう批評家がある。しかし彼女のような階級的立場に立ち、また革命家(――宮本顕治自身のこと)の妻として苦難な道にたえるためには、出生の中ブルジョア的環境は、むしろ挫折をさそい易いマイナスの条件でもあることは常識である。それだけにより多くの努力と堅忍が[#「堅忍が」は底本では「竪忍が」]彼女の生き方には求められたのだ」
 この事は、或る程度まで、たしかに、そうだ、当っている。しかし私は読みながら、悪意からで無く、笑ってしまった。なぜなら、この文章はよく読んでみると、次ぎのようにホンヤクできそうに思われたからだ。「百合子は小金持の娘に生まれたんだから、そのまま打っちゃって置けば、ブルジョア女文士かブルジョア奥さんになってしまう筈だし、それが当人に一番ラクだったろう。しかし、当人がしっかりしていたから、苦しいのをガマンして左翼になったのである」と言ったふうに。そして、たしかに、その通りにちがい無い。苦しいのをガマンして、そうなったのは、えらい。だが、もうすこし、落ちついて考えて見ようではないか。
 たしかに、そうなるために宮本百合子は苦しかったにちがいない。しかし、その苦しさと言うのは、主として観念的な苦しさではなかったろうか? 実際的な、又は肉体的な苦しさは、あまり無かったのではないだろうか? もちろん私は、実際的、肉体的な苦しさの方が、観念的な苦しさよりも、より苦しいなどと言おうとしているのでもなければ、考えているのでもない。しかし、人生について「ハンモン」しながらキレイな着物を着てゴチソウを食っている金持のお嬢さんの苦しみよりも、着る物も食う物も足りないために、いかに生きるべきかに具体的に苦しんでいる貧乏な女工の苦しみの
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