実際に世間人として他人との人づきあいに差しつかえる程のものでは無い。せいぜい、キゲンが悪いという所。そういう事をくりかえしているものだから、肉体のオルガニズムも、精神のオルガニズムも、ひどく弱まってしまい、そして弱まってしまった状態で、なかなかタフになり、永つづきがする。眼だけは鋭くなり、或る種の批評能力だけが発達する。或る種というのは、この批評からは、なんにも生まれて来ないからだ。何かをほめても、何かをくさしても、ただ灰色の言葉で「そんなふうな事を言ってみる」だけで、正確な価値はなにひとつ生まれて来ない。なにもかも、つまらなそうな事を言いながら、どうして、それほどつまらなそうでも無く生きる。現世を見る目は、ひどく公平で冷静であるようでいて、そして実は深いところで、それはシット心に支えられている。しかも、それは宦官《かんがん》のシット心である。キンヌキ馬のシット心である。「じゃ、代るから、てめえ、やってみろ」と言われても、やれはしない。それだけに、いつまでも果てしなく永続きがする。――そう、だから、二重の意味で、物を見る目は公平で冷静だとも言えないことも無い。宦官やキンヌキ馬が冷静であるがごとく。――ザッとそんなものであろう。
これは、正確にはイズムでは無い。或る種の人生観照の態度の習慣化したものとでも言うのが一番当っている。精力と論理と一貫性を欠いたソフィストリイの堆積である。だから、合理的、論理的な追求には耐え得ない。それだけに又、合理的・論理的な手段では破砕することは不可能であり、いつまででも生きつづける。そして、いつまで生きつづけても、なんにも生み出して来ない。つまり、この手のニヒリズムは、生命力の欠如ないしは稀薄から生まれたものである。
ホンモノのニヒリズムは、そんなものとは、まるきりちがう。これは、生命力の過剰と充溢から生まれる。エネルギイを自己のうちに持つ。いろいろな行動の動機になり得る。空虚は、爆発直前にできる真空だ。爆発は対照物を徹底的に粉さいするまでやまない。同じくフィリスチンの敵ではあっても、これは、他人のうちのフィリスチニズムを撃破するのと同時に、それと同じ程度の無慈悲さでもって自分のうちのフィリスチニズムをも撃破する。ために、時によって、自分そのものまで撃滅してしまうがごときパラドックスさえ演ずる。観念が肉体を裏切ることを許さない。肉体
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