が観念を裏切ることも許さぬ。ザインとゾルレンが一瞬のうちに一挙に解決されなければならぬ。もしそれが解決されなければ、他のいかなる解決をも峻拒《しゅんきょ》する。――つまり、より大きな肯定へ向っての深い無意識の有志だ。真に尊重さるべきなにものかを生み出す力を持ったものの、生み出す前の清掃であり、生み出すための盲動である。盲動はデスペレイトだ。だから非常に往々に、生みかけたものを踏み殺すのと同時に、その生みかけた自分をも八つ裂きにして果てる「愚」を、くりかえす。――これが、ニヒリズムだ。いずれにしろ barren では無い。たとえ自分をも八つ裂きにして果てたとしても、ついには barren ではあり得ない。これは、言わば、太いシッカリした柱を立てるために(その柱の木がどこに在るかまだわからないままであったり、当人は自分が何をしているか知らないままにであったりしながら)地面に深い空虚な穴を掘って掘って掘り抜いている人間の姿である。もちろん、自分自身も時に、まっさかさまに落ちて死ぬことがある穴だ。
だから、ニヒリズムとは、幼年期に於ける革命的精神の総称である。これは独断では無い。歴史を調べるとよい。既存のものを否定するという所から出発しなかった革命は、一つとして存在しなかった。個人を見てもそうだ。その精神の幼年期において、このようなニヒリズムに取りつかれたことの無い革命家は一人としていなかった。いたら、そいつはニセモノである。
――ニヒリズムと呼ぶのに、正しく値いするものは、これだ。これは世界的場[#「場」に傍点]で通用する。世界的場[#「場」に傍点]で通用させたいために、こんなふうに言っているのでは無い。人間として、自然に、誠実に、論理的に力強く考えられたものは、どこの誰が考えたものでも、そのままで世界的場[#「場」に傍点]に通用するという意味で言っている。「日本製」の宦官シット的・正宗式ニヒリズムは世界的場[#「場」に傍点]では通用しない。という意味も、それが人間として不自然に、ケイレン的に、一貫性を欠いて、自分のエテカッテに、軽薄に、弱々しくしか考えつめられていないということである。同じくニヒリズムと言われながら、この二つほどちがっているものは無い。ほとんどこれらは敵同志である。たとえば、普通ニヒリズムの反対物だと考えられている肯定的思想体系である社会主義や共産主
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