が、奔馬性の熱を出すように、この現象はもう既に現われていて、世のカッサイを浴びている。その中には、かなりの老人になってから初感染して、しかもほほえましい事に、サナトリアムのベッドの上に安全に寝てから奔馬性の熱を出している、森田草平だとか出隆とかいったような人もいるくらいだ。(そうではないか、君たちにもし共産主義者になる必然が有ったのだったら、それの最も必要とされた戦争中になぜなってくれなかったのだ? あれから、まだ、たった四年ばかりしかたっていないのだ。忘れはしないぞ。君たちの六十年は、君たちの四年よりも軽いのか?)――いやいや、批難しているのでは無い。むしろ、けっこうだと思っている。大いにけっこうだとは思っていないが、中ぐらいにけっこうだと思っている。まったくのところ、べつに悪い所に入るのでは無し、悪いものの上にのっかるのでも無いのだから、それはソッとしておけばよい。ただ当人たちがあんまり騒ぐから、ヘンな気持になるだけである。
ところが、第二の、自然主義風な日本製ニヒリズムにイカリをおろしてしまいそうに思われる人々や傾向には、問題があるように思う。それを語ろう。
私は barren と言った。荒蕪のとか、不姙のとか、なんにも生み出さないところのとかいう意味のいっしょになった言葉のようだ。正宗白鳥式のとも言った。日本に昔も今も存在しているニヒリスティックな傾向の中に、ヨーロッパ的な頭ではチョットつかみ取ることのできない一つの傾向があって、そして現在それを最もよく代表している一人が正宗白鳥だからである。
それはどんなものであるかと言えば、先ずそれは頭の中で一切の現世的なもの、フィリスチンのものを否定する。もちろん、自分の中にある現世的なものフィリスチン風な要素をも否定する。否定しながら、彼自身の実生活はまったく現世的に常識的で、中庸がとれていて、百パーセント・フィリスチンだ。否定はするが、自らを危くするような所までは否定しない。自分で自分の食物に毒を混ぜるが、ホントの病気になるところまでは混ぜない。混ぜたという事も知っているし、そのために食物がうまくなくなった事も知っている。それでいて、食わないかというと、やっぱり食う。しかし病気にならぬことを知っているから安心している。しかし、うまくも無いからシカメている。だから、いつでもインウツだ。しかし、そのインウツさも、
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