らしい筆つきでもって書きながら、自分は小じんまりとした「文化住宅」に小ぎれいに住んでパアマネントをかけた奥さんとの間に一年置きに生んだ子供にパパなどと言わせ、外に出れば文士仲間と酒を飲みながら「文壇」の噂さをして酔っぱらった果ては、ヘドは吐いても、チャンと終電車には間に合うように帰って来ると言った(――いや、これはタトエだ。特定の誰かの事を言っているのでは無い。誤解無きよう)生活をしている作家――その他これに似た等々――を、私は、見たくない。つまり、ニヒルにも耐え得ない作家は、私には要らぬ。なんとなれば、ニヒルに耐え得ない奴は、ニヒルの反対のものにも耐え得ないからだ。と言うのは、われわれは、結局肯定したいから否定するのだからである。強く、ゆるぎなき、徹した、大きな肯定を持ちたいからこそ、弱く、グラグラする、疑わしいちっぽけなものを否定し否定し否定しつくすのだからである。

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 このままで行けば、これら戦後派の人々の大部分が間も無く、その左がわにいる人たちはナロウドニキ風にゾロゾロと左翼に流れこんで行くであろうし、その右がわにいる人たちは自然主義風な正宗白鳥式な「日本製」の barren ニヒリズムにイカリをおろしてしまいそうに思われる。その他のモダーニストやペダントやハイカラ小僧どもは、どこでどうなろうと、どうでもよい。
 そして、第一のナロウドニキ風に左翼に流れこんで行くであろう連中のことも、この場合、大して問題にするにたらぬ。なぜならそれは、大体において、自分のカラダがよごれていると思った人間が共同浴場に入ったり、自分の頭がすこしおかしいと感じた人間が精神病院に入院したり、自分の呼吸器の変調に気がついた人間がサナトリアムに入院したり、また考えようで、威勢よくセリあげられているダシの上に人が乗りたがるのに似た現象であって、べつに批難したり押しとどめたりすべき事がらでは無い。この点では、戦後派の人たちに限らず、日本の文化人・文学者・小説家の大半――世間で世相派とか肉体派とかエロ作家とか言われている――たとえば丹羽文雄、石川達三、田村泰次郎、舟橋聖一(丹羽氏や石川氏や田村氏や舟橋氏よ、たびたび例に引いて失礼ごめん)などという人たちの大半が、あと半年か一年もすれば共産党などに入党するのではないかと思われるから、世話は無い。ちょうど結核初感染の患者
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