も大事なものは、すり切れ、衰弱して来てしまっている。
普通こんな場合に「ジャナリズムも悪い。あまり書かせすぎるから」という言葉が飛び出してくる。私の口からもそれはチョット飛び出しかける。そう言ってもよいとも思う。しかし、実はそれは別の問題だ。今私が語っていることの根本的な解答にはならぬ。ジャーナリストは、その作家の作品がほしいから作家を追いまわすだけだ。たとえば三カ月に一篇しか書かないと決心し、事実書かない作家を、どんなに強引なジャーナリストが追いまわしたところで、それ以上書かせるわけにゆかない。かんたんである。それ以外のいろいろの口実や弁解はみなキベンだ。責任は全部作家当人にある。
良くない。ある作家たちは文学少年みたいになってしまって、実になさけないしかたでドストイェフスキイなどの真似ごとをしはじめた。ある作家たちはジョイスなどの流儀に舞いもどって、心理的「実験」などをするようになった。ある作家たちは、鼻もちのならないポーズで「おとなぶった」ペダントリイをひけらかしている。――(無責任な放言では無いつもりだ。私もムダに作品を読みはしない。この作品のこういう個所やこういう要素がそれだと例示することは、できると思う。必要が起きたら、そのうちに、する)それでも一応、世間は通る。甘いのも、また、辛いのも世間だ。甘いものさと思ってしまえば、どんなにでも甘く見えるのが世間だ。通るだんでは無い、大いに通った。彼等は、それに馴れた。タカをくくったらしい形跡がある。「こんなもんかいな」と思ったらしい形跡がある。すこしはホントに物のわかる人も世間にいることを忘れたらしい。私などハラハラして眺めていた。(なぜならこれらの作家たちに非常な親近感と、それから、これらの作家たちがやっと現世紀の世界的場[#「場」に傍点]の最低水準ないし出発点に立ってくれたと思って喜び、自然それらの歩み出しに、たいへん大きな期待を私が抱いていたから。)案の通り、すこしは物のわかる人たち、批評家などが、この人たちを悪く言い出した。悪く言われて、ある者はショゲているらしい。ある者はフクレた。ある者は、それを無視して、故意に快活に踊っている。マトモに返った人は、すくないように見える。マトモに返ってチャンとしてほしいのに、たいへん残念だ。悪く言いだした人たちの言いかたも、それには責任があるように思われた。私も今悪
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