トとニヒルは、いやおう無しに彼等を駆って、ほとんど盲目的に、社会的パトスあるいは社会的ソリダリテ(=自我一個について語ることが、そのままで即ち、その自我のぞくしている人間集団について語ることになる関係)の上に彼等を立たせた。そして、この社会的パトスまたは社会的ソリダリテこそ、芸術と芸術家の態度として本質的に最高のものである。彼等の最初の一、二作がすぐれていたのは当然であった。
たしかに、最初のところで、彼等はそこに立っていた。そして忘れてならぬ点は、「ほとんど無意識に、盲目的に」そこに立っていたという事である。書かざるを得なくなって小説を書いた。言うならば「描かないと死ぬから」(ゴッホ)書いた。小説としての出来不出来を考えたり、いわんやそれが世間や文学界からどんなふうに受取られるかを考慮したりする余裕は無かった。すくなくも、そのような事よりも、いや、そのような事をも、いっしょくたにして、端的に燃えあがった。深く強い本然から書いた。それが期せずして、高い立場に彼等を立たせたのである。
そこまでは、よかった。あとが、だんだん、おもしろく無くなって来る。というのは、ほとんど無意識のうちに、そこに立ち得た彼等に、「意識化」が、その後、あまり起きていない。自分が立ち得た立場、自分が取り得た態度――即ち自我と自分の作品との関係の本質や、その自我を自我としてかくあらしめている社会(集団)との関係の本質――を客観的に理解し、つかみ取り、自分の中に定着するという事を彼等はほとんどしていない。つまり、自分が無我夢中のうちに確保し得た「陣地」が、自分にとって、又、他にとって、客観的にいかなる陣地であるかを知ろうとしていないのである。かえって、その中で眠りかけてしまっている。
それでは、たとえ最初客観的にどんなに有利な地の理と条件をそなえていても、だんだんダメになって行く以外に無い。絶えざる意識化や、自己への定着が起きないところには、衰弱や腐敗その他のマイナスが起きないわけには行かない。そして、既にそれが起きている。
4
げんに戦後派作家たちのその後の作品が、ほとんど例外なしにすべて良くない。すくなくとも、彼等のそれぞれの第一作からわれわれが期待したものからは、いちじるしい距離がある。「技法」はみがきあげられた。「構築」もととのった。しかし技法や構築などより
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