いつめかたは、ノッピキのならないものだ。もちろん敗戦国民において、それはいちじるしい。
 今度の大戦における日本の敗戦は、二重の意味で徹底的にサンタンたる敗戦である。それは、戦闘力や戦争準備や戦争思想の敗北であると同時に、日本の歴史の――それをもうすこし区切って言えば、日本の近代そのものの敗北であった。同じく敗北してもドイツやイタリイでは、主として、その国の中の一つのパルタイの敗北であった。日本ではそうでなく、日本そのものの敗北であった。
 戦争中われわれを追いつめて来た、そして戦後追いつめて来ているニヒルは、それだけに、根本的に深く永いものであったし、今後も深く永いものであろう。あちらを見ても、こちらを見ても、いろいろのものが「再建」されているのであるが、しかし実はその「再建」されている姿そのものが、ここ当分三十年や五十年間における日本の再建が不可能である証明でないものは無い。その酷烈さかげんは、もし日本が真に再建し得るものならば、それは他では無く、日本の再建がほとんど不可能に近いという事を実感としてつかみ取るところから始める以外に無いと思わせる。つまり、自らの足で立ちなおろうと多少でもマトモに考える日本人は、いったんは、なにかの意味で、ニヒルの底を突かなければ自分の足を置く場所は見つからない。それ以外は皆ゴマカシかアユかツイショウか雷同だ。われわれを追いつめて来ているニヒルは、人とケンカをしてサンザンにたたきなぐられた人間が痛さとつらさに泣き、泣きながら次第にその痛さとつらさを忘れて行くような種類のものであったり、チョットした手術をされた患者が手術室から出されてヤレヤレ痛かったと思うような程度のものでは無いし、あり得ない。
 ――そのような認識を私は持つ。その認識に立って私は見る。
 戦後派の諸君は、それぞれ戦争を通過して来た。脱出はデスペレイトなものであった。ニヒルは彼等のカカトにくっついていた。自然に彼等の最初の一、二作は、それぞれ、ほとんど無意識のうちに、そのデスペレイトとニヒルを具体化して、力ある表現をとり得た。芸術作品としての弱点や歪みを多分に持ちながらも、それぞれ、それらは本質的に良い作品であり得た。つまり、彼等は、自ら意識しないで、「現役」で戦争を通過して来た世代のチャンピオンまたはスポークスマンであった。別の言いかたをすれば、戦争からのデスペレイ
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