いることがわかる。一つも例外は無いから、例をあげて実証する必要は無いだろう。
そして、大戦争があったという事は、その中で人間が強い圧力の下で、最も集約的に爆発的に「生きた」ということである。それは望ましい生きかたでは無かった。にもかかわらず、人間はそれを「生きた」ことにまちがいは無い。死んだのでは無い。「生」のこちらがわの事件であった。言わば、「死なんばかりに」生きたのだ。通って来た者は、みなそれぞれのキズを負っている。
われわれが戦後の文芸作品を見た時に、われわれの目が、そのキズの所産またはキズそのものとしての性格を最も強くそなえた――すくなくとも、最も強くそなえ得る条件や前提を持った作品や作家たち、つまり戦後派に最も強く注がれるのは自然であろう。それは単なる興味からだけでは無い。もっと冷厳な、もっと深い関心からだ。自分一個の経験と他の人々の数多の経験の間の普遍と特殊とを照し合せ、修正し合って、それを客観的な「人類の経験」として跡づけたいという――言わば、もう既にわれわれの本能にまでなっている近代的、科学的な欲望からのようである。そして、さらに深い所では――もちろん、無意識的に――作品や作家がそこに露呈しているキズそのものの中に、治療を求めているのである。
戦後派作家たちの作品が、それぞれ多かれ少なかれキズになっている事は事実である。われわれは、それらから多かれ少なかれ治療をも得ている筈である。にもかかわらず、治療の実感が来ない。満足しない。すくなくとも、私はそうだ。ハグラカされたような気がする。引きのばされたような感じがする。そして悪くすると、一寸のばしに――と言うことは、つまり永久に――ハグラカされてしまいそうな気がするのである。
なぜそうなのか、その理由や原因と思われるものを私流にしらべさがして見ることが、この一文の目的である。
そして、先ず、戦後派作家たちの作品が、たしかに或る程度まで戦争からのキズでありながら、それが治療の実感を充分には与えてくれないのは、他の原因に依るよりも先づ第一に、それらの作品がキズではあってもスリムキキズ程度のものか、または、かんたんに治りかかっているキズであるためではあるまいか? と考えてみる。
3
戦争は、人間を、ニヒルの方へ追いつめる。戦争自体がニヒルだからだ。しかも、その追いつめる力と追
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