派と言われている作家たち――梅崎春生や椎名麟三や野間宏や石川淳、三島由紀夫、加藤周一といった、主として戦争直後から作品を発表しはじめた人たち――のことを書いてみたいと思い、いろいろやってみたが、実に書きづらいので弱った。
 理由は、これらの作家たちの示している姿が雑多で向き向きで、――しかも、その雑多と向き向きの中に、根本的で複雑でデリケイトな諸問題が非常に入りまじった形で投げ出されていて、それらを解きほごしてみることが、ひどくメンドウで、私にオックウに思われたためでもあるが、それよりも、さらに大きな理由はもっと直接的なものであった。それは、私がこの人たちに対して、強い親近感を抱いていながら――多分、抱いているからこそ――この人たちの作家としての歩みを全部的には肯定することができない、いや、考えようでは、一番基本的にザンコクな個所で否定しなければならないためであった。「自分のことはタナにあげて」そんなことをするのは、つらい。なんども書き出しては、やめた。今でも、一方に、やめることができれば、やめたい気持がある。しかし、けっきょく書くことにする。なぜなら、この人たちの持ち出している諸問題と姿の中に、私自身の問題や姿も含まれていることに気がついたからである。だから、むしろ、書かないでいる事こそ、ホントは「自分のことをタナにあげる」ことになるからだ。
 どこまで突込んで行けるか。わがペンよ、冷やかにあれ。

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 あらゆる芸術作品、とくに文学作品は、直接的にはその作者個人が、間接的にはその作者のぞくしている集団・層・階級・民族・場所・地方・時代が「生きる」ことから受けたキズの所産――と言うよりも、キズそのものである。同時に、その作品が、そのキズの治療――すくなくとも治療への決定的な第一歩である。しかも見おとしてならぬ事は、その作品が治療であるのは、その作品が先ずキズであるゆえだという事だ。その作品が、そのままの形でキズで無いならば、それは治療とはなり得ない。また、あらゆる作品は、それが実質的にキズである程度に応じて治療であり得る。そのことを、作者が知っている、いないに関係なく、そうだ。
 これは恋愛小説から犯罪小説に至る、ありとあらゆる作品と、その作者と作者のぞくしている集団・層・階級・民族・場所・地方・時代との関係をしらべて見ると、事実がそうなって
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