これやの偶然に逢った人々から「世間話」を聞いては、それに自分の「人生観」ですこしばかり味をつけて作品を書くというのが彼等の実情らしい。それが悪いと言っているのでは無い。作家も人間だもの。いや、作家こそ最も強い人間だもの、そうであって悪いことがあるものか。それに、やりよう次第では、作家は二十年ベッドの上に寝たきりでいても、客観的な大作品が書ける事だって有り得る。肉体に足が有るように精神にも足は有る。「千里を遠しとしない」という事を肉体にだけ当てはめるようなヤボを言っているのでは無い。
しかし、この人たちの目ざしているのは、とにかく、ルポルタージュ方式なのだ。だのに、最も粗悪な「私小説」作家と同じ位に、人生に対しても社会に対しても世界に対しても、身も心も共にトグロを巻いているに過ぎない。自身が好んで取り上げた方式の命ずる努力はあまりしないで、そのクドクだけを期待するのは、すこし虫がよすぎはしまいか。すくなくとも、商売不熱心のソシリをまぬがれまい。この人たちの作品の世相ルポルタージュにザッハリッヒな力が無く、あれやこれやの弱々しい主観と観念が目立つ――つまり、言ってみればローズものが多いのは、自然の数ではあるまいか。この人たちは「おれたちの盛大さをソネんで、ケチをつけるんだ」とばかり思うことをしばらくやめ、又、量と党派の力にばかりモノを言わせることをしばらく控えて、自身の手段に、もうすこし忠実になって見せてはどうであろうか。その方が私には、ありがたく思われる。それには、雑誌「世界評論」に続載されたペリガンの数篇の世相ルポルタージュや、雑誌「日本評論」に連載されつつある同誌特派記者による数篇の社会ルポルタージュを読んで、その仕事に対する熱意と、手段に対する忠実さにアヤかるようにしたらよかろう。
もっとも、こんなふうにすれば、諸氏の「量」は多少落ちるだろう。その代り、いろんな人がホッとするだろう。何事につけ、異様でミットモナイ事があまり永くつづくことを好まぬ人も、まだかなりいるから。
最初、この人たちの一人々々の傾向やそれぞれの作品についてもっと具体的に細かい事をも語ってみる気でいたが、もう既に指定の紙数を越えた。別の機会にしよう。私こそ、早取写真式に書くことを練習しなくてはいけないようだ。
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「日本製」ニヒリズム
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